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※「小樽問答」とは、学会と宗門が和合時代に日蓮宗とで行なわれた「法論」で、当記事では本尊と感応の話の部分から本尊の意義がわかるところを出します
学会側 小平芳平・大正十年八月十三日長野県に生る、昭和二十二年中 辻 武寿・大正七年四月三日埼玉県に生る、昭和十三年東京府豊 日蓮宗側 室住一妙・新潟県出身、立正大学卒業、身延山短期大学身延山 長谷川義一・東京妙顕寺、日蓮宗東京北部布教師会長、元立正 学会側司会者・池田先生 次に学会側、辻先生にお願い致します。 学会側・辻 えー、只今、大石寺の本尊のことにつきまして、長 心配することはありません。 一つだけ私が申し上げておきたいことは、出世の本懐ということ 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世 伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う……余は二十七年な 二十七年目にして初めて南無妙法蓮華経をお唱えになったのではあ これは小平先生の分野に属しますから、私は沢山別にいいたいこと 先ず最初に、さきほど、室住先生がおっしゃいました、仏像に、 何故、身延の仏像に魂があるのか、その文証を上げてもらいたいの その次に、人のために祈祷をしても良いということをおっしゃい 「利根と通力とにはよるべからず」。 祈祷は止めてあるはずであります。 その次に、三つ目、信仰あればおのずから感応するということを 但し畜生道の感応があることを私は断言する。 仏を拝め奉れば仏の感応がある。 畜生を拝めば畜生の感応がある。 身延山は畜生の感応があるから堕地獄だ。 次に七面山のことについて。山の電気であって、奇蹟があったと 守護神として報恩のため所願のためにしている。 そういう電気があり、奇蹟があるかもしれません、与えて、あった 「法華経の題目をもって本尊とすべし」 とはっきり仰せられている 次に御霊骨は身延で御法主が代々お護りして来たというけれども ちゃんと大石寺にございます。 次に本尊は衆生の真心をもって題目とする、衆生の真心の題目を それなら三大秘法は要らない。 本尊と題目と戒壇、まあ、戒壇は与えていってあるとしましょう、 題目も唱えればそれはある。 じゃ、本尊は、本尊は心だと。心が本尊ですか。 なら三大秘法じゃない二大秘法じゃないか。 さてこれを奪っていうならば、本尊は、身延に正しい本尊は一つ それが証拠には「南無妙法蓮華経 「南無妙法蓮華経、日蓮」 こうお認めになったのが御本尊でなけれ だから本尊に迷う。 「諸宗本尊に迷えり」という大聖人の御言葉がひしひしと私の胸を打 身延山に本尊はない。 ことに身延山の開山である日向、日向の常住御本尊は大石寺にある もう一つ長谷川先生は顕本法華の御僧侶と承わっておりましたの まことにけっこうです。 これはどういうわけでいらっしゃいますか。失礼しました。 ▲
by taicyan0402e
| 2018-09-30 13:22
| 教義的
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※戸田先生オリジナルの『質問会集』と戸田城聖全集第2巻(聖教新聞社版)とでは違う部分があり、その違いも合わせて出します。
弘安二年十月十二日の大御本尊 『質問会集』(昭和38年8月2日初版) 10ページ~11ページ (途中、戸田城聖全集で追加されてる部分を▽△にて表記しております) [問3]弘安二年の十月十二日の御本尊様について説明して下さい。 弘安二年の十月十二日の御本尊というのは奉安段の御本尊様のことです。 ▽▽▽ 本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の御本懐として 聖人御難事に、建長五年より、余は二十七年にして出世の本懐を遂 日寛上人は、大御本尊様について 「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一な さらに、日寛上人は、大御本尊の功徳について 「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして このようにすばらしい大御本尊が、七百年の昔から日本に厳存し、 △△△ これに対しては、なにものも絶対疑っては相なりません。 いま安永弁哲が、偽作論のなかで、第九代の日有上人様 総本山で、明らかにすればいいのに秘密主義なのです。 それは「時を待つのみ」(御書全集1022ページ)とい 有師様が御本尊を偽作したというのは、身延の連中のい 私は総本山へきて、日有上人の御本尊を拝したことがあります これは現在でも御宝蔵にきちんとしまってあるのです。 身延派はこの御本尊様と間違えているのです。 またおかしいのは紫宸殿御本尊様のことをいってい またどの御本尊様ともいえない。まったくのうそです。 弘安二年の御本尊様は、弘安二年の御本尊様です。 これは拝んでみれば功徳があるのでわかるではないですか。 あの御本尊様を他の人が作れますか。 私がラジオやテレビを作るようなもので、いくらやっても映らない 洗濯機にしても私の作ったのでは動かないのです。そのようなもの 大御本尊様を拝んでいれば、そんなことはわかるではないですか。 弘安二年の大御本尊様は、日有上人がつくったのではありません。 日有上人のは別にあるのです。 ▲
by taicyan0402e
| 2018-09-29 09:08
| 教義的
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戸田城聖『質問会集』(昭和38年8月2日初版)
1ページ~4ページから こういう大衆の質問会には、質問をする人を大きく すなわち真実に求めて聞こうとする味方と、やっつけてやろうとい また質問を受ける方にも、受ける場所によって覚悟があり やっつけてやろうという連中ばかりいるところへ行く場合には、そ 行って、めちゃめちゃにやられては、たまったものではありません ところが仏法のうちでは、たいてい味方で、自分のわからんことを それで私には敵でも味方でも、どっちでもいいのです。 やっつけてやろうというなら、やろうという腹でやってもらいたい 質問するのには、敵であろうと味方であろうと、仏法の上には規則 それはいかなる経文におきましても、仏は「四衆に囲繞せられ」ということばが、まず最初にあります。 これは四つの種類の人に囲まれてということであ その四種の人というのを説明します。 まず影響衆という人がいます。 経典はぜんぶ一つの質問会です。質問のないのは方便品だけですが 釈尊の経典というのは、みな質問があります。 質問をもって問い、問いがあって仏が答えをおこす。 日蓮大聖人様の御書もぜんぶそうです。 問いがあって答えをおこす、その時にその形の中にいまいう四種類があるのですが、影響衆といいますのは、か また当機衆といいまして、その説法を聞いてわかる 結縁衆といいまして、そこで縁を結ぶ人がいます それからもっとも大事な発起衆といいまして、質問 自分だけのことではないのです。 発起衆はみなの気持ちを知っている、一般の代表者という意味にな それを発起衆という。 それなのに質問会を進めていくと、勝手なことをいいだすのです。 たとえていえば病気なら病気のことを聞くでしょう。 いいですよ、この中にだっ しかし、あの人はこの程度でなおるといわれたのだから私のもなお これを当機衆というのです。 ああそういうものかな、もっと信心して、もっとわかろうといえば 結縁衆です。 このとおりでありました、私はそういう体験をもっておりますとい 借金の話なら借金の話でこれも仕方のないことでしょう。 仏法の話なら仏法の話で、いいことでしょう。 また学会に関することを聞くならそれもいいことでしょう。 ただ、同じことを重ねて聞かないようにしなさい。 それだけを心得ていることです。 発起衆は、自分だけ聞けばあとはいいのだというのでは、質問の意 それならば支部長でも間に合うことだし、地区部長がおかし また小児マヒの子供をもっているとするのです。 このなかにもいるかもしれませんが、これは原論上いつもいっていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。 親が子に悩む宿命を持ってきたのだから子供に罪はない ところで折伏すれば小児マヒの子を持つ必要がないという するとどうなります。 ちょうどシラミを持っていたとする、からだをきれいに 理くつはこれと同じことです。 小児マヒにしても一つの魔ですから、その親の側にいなく ここが、いつも教えるところなのです。 これ一つがわかれば小児マヒの話はきく必要はない それを何べんでも同じことをきく、ここらで小児マヒの話 まるで小児マヒの病院へきたみたいなものです。 本山だか小児マヒの病院だかわけがわからなくなってしまう。 借金の話がこっちで出ると、あっちもこっちも借金 そうならないように質問してもらいたい。 ▲
by taicyan0402e
| 2018-09-27 19:49
| 教義的
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戸田城聖『質問会集』(昭和38年8月2日初版)
7ページ~8ページより [問1]「南無妙法蓮華経」とは、どのような意味があるのでしょうか 南無とは帰命、すなわち妙法蓮華経に絶対にしたがうという意味で 妙法とはわれわれ人間の智ではかり知れぬ不思議な法 われわれは泥沼にいるのです。 泥沼から咲く花は美しい、華と果が功徳となって現われる、これが因果倶時であります。 経とはわれわれがありがたいと思うことです。 これ自体が、われわれの運命を支配するのです。 別な立場からこれを拝せば、無作三身如来(むささんじんに 末法にはいっては日蓮大聖人様であり、日蓮大聖人様御自身所有の すなわち人法一個であります。 われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわ われわれもやはり、ありのままの永遠真如(しんじょ)の自分にか これが「南無妙法蓮華経」の実体であります。 さらに、私の体験から話をします。 いまから十年前に「仏とは何であろうか、いるのか、いないのか」 それには「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、……動に非 そして十界論から南無妙法蓮華経と仏とはいかなる関係かを悩んだ あらゆる人の宿命を、転換し得る力を備えられた久遠元初の、宇宙の根本の力、最高の仏と気づき、これよりあら 宇宙の現象は、みな妙法蓮華経の活動であります。 妙法とは一応われわれの心であり、蓮華とは体のこと、泥沼より清 経とは心と体の働きをいいます。 さらに、貧乏人が金持ちになるように奇蹟のような、説明のつかぬ ▲
by taicyan0402e
| 2018-09-26 20:58
| 教義的
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「小樽問答」とは、学会が宗門と和合時代に、日蓮宗と「法論」をしたもの
昔の学会教義の宝庫というしかないですね 昔の学会の雰囲気そのままです 当記事では本尊論が学べる部分について 辻 武寿 大正七年四月三日埼玉県に生る、昭和十三年東京府豊島師範学校卒業 昭和十五年七月入信、当時、創価学会青年部長・教学部教授・蒲田支部幹事。 のち公明党参議院議員、創価学会副会長・參議会議長。 この方が学会側代表しての部分から ▽▽▽ それはさておきまして私は身延山に一言いたしたい。 宗教で最も大事なことは本尊である。本尊とは、本尊とは「根本を尊敬する」ということであります。 しこうして日蓮大聖人は「末代悪世の凡夫は何物を何て本尊と定むべきや、答えていわく法華経の題目を以て本尊とすべきなり」。 明らかに御妙判に明言しておられるのであります。 ところが先日身延山へ行って驚きました。 まずお釈迦様の像があると思えば、日蓮大聖人の像もある。 七面山へ行けば七面大明神とか、七面天女とか申しまして、犬やら蛇やらえ体のわからないような畜生が祀ってある。 そのほか、稲荷が祀ってあるかと思えば大黒天が祀ってある。 餓鬼道も畜生界も修羅界も何でも構わず拝んでいるというのが現身延派の現状であります。 「法華経の題目を以て本尊とすべきなり」という日蓮大聖人に対する師敵対といわなくって何ということが出来ましょうか。 そうかと思えば三十種類もの色々のお守りがありまして、祠という祠、そういうところには至る所にお賽銭箱があって、信心なんかどうでもいい、賽銭さえ上ればいい。 これが身延派の現状なんだ。 経王殿の御書には、「鬼子母神、十羅刹女、法華経の題目を持つ者を守護すべしと見えたり」。 鬼子母神も、法華経をたもってこそ大聖人様の御本意である御曼荼羅を拝してこそ、自分の頭を割れようとも飛んできて守護するというのが鬼子母神の願いなんだ。 我々は鬼子母神の所へ行って何を頭を下げて拝む必要がある。我こそ大聖人様の子として弟子として、末法の法華経の行者として広宣流布のために邁進している時に、鬼子母神が飛んできて仕えるはずであります。 いわんや、畜生、龍神を拝むということは何事であるか。 開目抄において「諸宗本尊に迷えり」。 大聖人様は喝破せられております。 身延には身延には、定まった本尊がない。 日蓮大聖人様の、大聖人様の仰せられた本尊を拝んでいない。 釈迦を拝めとは誰がいったか。 ましてや丈六の劣応身、三藏経の劣応身を拝むということは大聖人様の意志にも反することである。 我々創価学会は大聖人様の御本意である弘安二年の十月十二日の本門戒壇の大御本尊様に向って、ただ一つの本尊に対して、心から帰依しているから功徳があるのであります。 この本尊雑乱に対して、身延山はいかに大聖人様にお答えするつもりでありましようか。 いかに創価学会に対して返答をするつもりであろうか。明らかなる返答を承りたいと思うのであります。 また、身延山は非常に貴いところである。尽未来際までも日蓮大聖人の魂がお棲みする所であるから身延は尊いのだ、とこう身延では主張するのであります。 しかし考えてもごらんなさい。何が何でも身延は尊いとは日蓮大聖人は仰せられてはおりませんよ。 「法妙なるがゆえに人貴く人貴きがゆえに処貴し」。 妙法が、清らかな妙法が続いてこそ身延山も貴かったのでありますけれども、今このように鬼子母神や龍神や大黒天や稲荷を祀っていたならば、たとえ大聖人様の御魂があるとしても、そこを捨て去るのが当然の結果だと思います。 また「かかる不思議なる法華経の行者の住所なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」と。 霊山浄土は大聖人様の御本懐である本門戒壇の大御本尊様のおわせる富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか。 拝む本尊が貴ければその本尊が感応してこちらに功徳が出るのであります。 稲荷を拝めばピョンピョン飛びまわる。 蛇を拝めばのた打ちまわる。 犬を拝めば匂いが強くなるけれども畜生道に堕ちるのだ。 身延山こそ師敵対大謗法の棲み家であります。 また身延山ではいろいろな荒行をする。水をかぶったり祈祷をしたり、そういうことは大聖人様が許されたでありましょうか。 「利根と通力とには依るべからず」又荒行するなんて外道のやる、バラモンのやることです。 大聖人様の教えは、ただ御本尊様に向って南無妙法蓮華経と唱え、朝に夕に方便品と寿量品を読誦するというのが大聖人様の仰せなんだ。 この清らかな仏法はただただ日蓮正宗にのみ伝わっておる仏法であり、他宗の窺い知れないところであります。 私は本尊雑乱ということを以て、徹底的に身延を爆撃する。 これに対して身延の明らかなる返ことを重ねて承わりたいと思います。 ▲
by taicyan0402e
| 2018-09-23 19:25
| 教義的
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経緯は知らんけど、今どき珍しい記事を見つけた。
http://sokataiyaki.blog.fc2.com/blog-entry-63.html 【日蓮正宗の信徒さん、との対話 - シニフィエさんとの対話】 ▼▼▼ もし、何らかの理由で身延一派に「大御本尊」を強奪され、身延山に「大御本尊」が安置されたならば、貴殿はどうされますか? 大聖人を本仏と認めてない身延へ参拝されますか? ▲▲▲ 質問の趣旨とは違うのだろうけど、「もし」大御本尊様が身延に「強奪され」というこの「状況」までも視野に入れたらえらくややこしい質問かも?f^^; 大御本尊様をなぜお守りすることができず「強奪され」なんて起こった?という質問文面にはない部分ね。 他に、【大聖人を本仏と認めてない身延】が【身延山に「大御本尊」が安置されたなら】なんてそもそもありえない無茶な質問といえば無茶な質問だけどf^^; まして強奪なんてのはf--; まぁ「仮の質問話」で質問の趣旨からしてそこまでは考えなくともよい、ということなのだろうけどf^^; たぶん質問の趣旨だろうことを視野に入れると【日蓮正宗になんら非がない状況にて、身延山に「大御本尊」が安置されたならば、大聖人を本仏と認めてない身延へ参拝されますか?】という質問になるのでしょうか。 まぁこれでも相当ムチャな質問になるかf^^; ▲
by taicyan0402e
| 2018-09-20 19:03
| 『ブログ村』の様子について
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「御本尊様へ感謝をもって向かうのがコツ」といったのが昔は普通に聞いたものですね。
御本尊様は明鏡ともよくいわれましたね。 『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ』 (御書557ページ・法華初心成仏抄) この御書でいえば『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて』は、 我が心の「感謝(の一念)」を本尊とあがめ奉りて、ということに等しいのですね。 つまりは、妙法蓮華経とは感謝の一念そのものなんじゃないか、そう僕は感じるのですよ。 つまりは南無「感謝」ということですね。 それが表面上は「御本尊様に感謝をもって向かう」ということになるのでしょうね。 ▲
by taicyan0402e
| 2018-09-19 20:58
| 御書・御文
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