フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

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「小樽問答」から、本尊と感応、本尊の意義

※「小樽問答」とは、学会と宗門が和合時代に日蓮宗とで行なわれた「法論」で、当記事では本尊と感応の話の部分から本尊の意義がわかるところを出します

学会側

小平芳平・大正十年八月十三日長野県に生る、昭和二十二年中央大学法学部卒業、昭和十六年十月入信、当時、創価学会教学部長・教学部教授・大白蓮華編集長。のち公明党参議院議員。

辻 武寿・大正七年四月三日埼玉県に生る、昭和十三年東京府豊島師範学校卒業、昭和十五年七月入信、当時、創価学会青年部長・教学部教授・蒲田支部幹事。のち公明党参議院議員、創価学会副会長・參議会議長。

日蓮宗側

室住一妙・新潟県出身、立正大学卒業、身延山短期大学身延山高等学校勤務。

長谷川義一・東京妙顕寺、日蓮宗東京北部布教師会長、元立正大学教授。



学会側司会者・池田先生
次に学会側、辻先生にお願い致します。

学会側・辻
えー、只今、大石寺の本尊のことにつきまして、長谷川先生から攻撃がありましたが、これについては、小平先生から詳しく説明があります。
心配することはありません。

一つだけ私が申し上げておきたいことは、出世の本懐ということであります。

「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、その中の大難申すばかりなし先々に申すがごとし、余は二十七年なり」。

伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う……余は二十七年なり、余は二十七年にして出世の本懐を遂げたということはどういうことか。
二十七年目にして初めて南無妙法蓮華経をお唱えになったのではありません。そこに重大な意義があると思います。
これは小平先生の分野に属しますから、私は沢山別にいいたいことがあるので、そのほうをやらせていただきます。

先ず最初に、さきほど、室住先生がおっしゃいました、仏像に、身延の仏像には魂がある。
何故、身延の仏像に魂があるのか、その文証を上げてもらいたいのであります。

その次に、人のために祈祷をしても良いということをおっしゃいましたけれども、そういう御書はどこにあるか。

「利根と通力とにはよるべからず」。

祈祷は止めてあるはずであります。

その次に、三つ目、信仰あればおのずから感応するということをいいましたけれども、それは確かにその通り、狐でも狸でも鬼子母神でも信仰すれば感応がある。

但し畜生道の感応があることを私は断言する。

仏を拝め奉れば仏の感応がある。
畜生を拝めば畜生の感応がある。

身延山は畜生の感応があるから堕地獄だ。

次に七面山のことについて。山の電気であって、奇蹟があったと
守護神として報恩のため所願のためにしている。

そういう電気があり、奇蹟があるかもしれません、与えて、あったとしても、そういうものを本尊にせよということを大聖人様がおっしゃったか、どうか。

「法華経の題目をもって本尊とすべし」

とはっきり仰せられているにかかわらず、龍神や畜生を本尊とする理由いかに。

次に御霊骨は身延で御法主が代々お護りして来たというけれども、これは日興上人様が日蓮大聖人様の一切の宝ものと一緒に御霊骨だけ置いて来るわけがない。

ちゃんと大石寺にございます。

次に本尊は衆生の真心をもって題目とする、衆生の真心の題目をもって本尊とするとおっしゃいました。それでは心が本尊か。真心が本尊だとする。

それなら三大秘法は要らない。

本尊と題目と戒壇、まあ、戒壇は与えていってあるとしましょう、戒壇。
題目も唱えればそれはある。
じゃ、本尊は、本尊は心だと。心が本尊ですか。

なら三大秘法じゃない二大秘法じゃないか。
さてこれを奪っていうならば、本尊は、身延に正しい本尊は一つもない。

それが証拠には「南無妙法蓮華経、身延山七十七世日嚴」そんな本尊が、どこにありますか。

「南無妙法蓮華経、日蓮」

こうお認めになったのが御本尊でなければならないのであります。
だから本尊に迷う。

「諸宗本尊に迷えり」という大聖人の御言葉がひしひしと私の胸を打つのであります。
身延山に本尊はない。
ことに身延山の開山である日向、日向の常住御本尊は大石寺にあるんだ。

もう一つ長谷川先生は顕本法華の御僧侶と承わっておりましたのに、いつの間にか身延山の用心棒にお成りになられた。
まことにけっこうです。

これはどういうわけでいらっしゃいますか。失礼しました。

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by taicyan0402e | 2018-09-30 13:22 | 教義的 | Comments(0)

戸田城聖『質問会集』「弘安二年十月十二日の大御本尊」

※戸田先生オリジナルの『質問会集』と戸田城聖全集第2巻(聖教新聞社版)とでは違う部分があり、その違いも合わせて出します。



弘安二年十月十二日の大御本尊
『質問会集』(昭和38年8月2日初版)
10ページ~11ページ
(途中、戸田城聖全集で追加されてる部分を▽△にて表記しております)


[問3]弘安二年の十月十二日の御本尊様について説明して下さい。

弘安二年の十月十二日の御本尊というのは奉安段の御本尊様のことです。

▽▽▽
本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の御本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕になられたのであります。

聖人御難事に、建長五年より、余は二十七年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。
日寛上人は、大御本尊様について

「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄分段)といわれています。

さらに、日寛上人は、大御本尊の功徳について

「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり」(観心本尊抄分段)とおおせであります。

このようにすばらしい大御本尊が、七百年の昔から日本に厳存し、今日では奉安殿に御安置されているのです。
△△△

これに対しては、なにものも絶対疑っては相なりません。

いま安永弁哲が、偽作論のなかで、第九代の日有上人様が板曼荼羅を偽作したというのが他宗の間違った議論なのです。これに皆迷う。

総本山で、明らかにすればいいのに秘密主義なのです。
それは「時を待つのみ」(御書全集1022ページ)というご命令をそのままうけていらっしゃるから、正直なのです。総本山ぐらい正直なところはないのです。

有師様が御本尊を偽作したというのは、身延の連中のいうことなのですが、そういわれると、そういうこともあるかなと、思うものもあるでしょう。

私は総本山へきて、日有上人の御本尊を拝したことがあります
これは現在でも御宝蔵にきちんとしまってあるのです。
身延派はこの御本尊様と間違えているのです。

またおかしいのは紫宸殿御本尊様のことをいっているのでもない、これは年号が違うのです。
またどの御本尊様ともいえない。まったくのうそです。
弘安二年の御本尊様は、弘安二年の御本尊様です。

これは拝んでみれば功徳があるのでわかるではないですか。

あの御本尊様を他の人が作れますか。
私がラジオやテレビを作るようなもので、いくらやっても映らないようなものです。
洗濯機にしても私の作ったのでは動かないのです。そのようなものです。

大御本尊様を拝んでいれば、そんなことはわかるではないですか。

弘安二年の大御本尊様は、日有上人がつくったのではありません。
日有上人のは別にあるのです。


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by taicyan0402e | 2018-09-29 09:08 | 教義的 | Comments(0)

戸田城聖『質問会集』より、「ここが、いつも教えるところなのです」

戸田城聖『質問会集』(昭和38年8月2日初版)
1ページ~4ページから

こういう大衆の質問会には、質問をする人を大きく分けると二色あるのです。
すなわち真実に求めて聞こうとする味方と、やっつけてやろうという敵側とあるのです。

また質問を受ける方にも、受ける場所によって覚悟があります。
やっつけてやろうという連中ばかりいるところへ行く場合には、それだけの腹がまえがいるのです。
行って、めちゃめちゃにやられては、たまったものではありません
ところが仏法のうちでは、たいてい味方で、自分のわからんことを聞きたいと願っているのがふつうなのです。

それで私には敵でも味方でも、どっちでもいいのです。
やっつけてやろうというなら、やろうという腹でやってもらいたい

質問するのには、敵であろうと味方であろうと、仏法の上には規則があります。

それはいかなる経文におきましても、仏は「四衆に囲繞せられ」ということばが、まず最初にあります。
これは四つの種類の人に囲まれてということであります。
その四種の人というのを説明します。

まず影響衆という人がいます。

経典はぜんぶ一つの質問会です。質問のないのは方便品だけですが、あれは無問自説といって、乱暴な経文なのです。
釈尊の経典というのは、みな質問があります。
質問をもって問い、問いがあって仏が答えをおこす。

日蓮大聖人様の御書もぜんぶそうです。

問いがあって答えをおこす、その時にその形の中にいまいう四種類があるのですが、影響衆といいますのは、かならず釈尊の説法をたすけ、日蓮大聖人様では五種の説法をたすける人であります。

また当機衆といいまして、その説法を聞いてわかる人がいます。
結縁衆といいまして、そこで縁を結ぶ人がいます

それからもっとも大事な発起衆といいまして、質問をおこす人、この人が、そこに集まった人たちが聞かんとすることを、問いおこすのです。
自分だけのことではないのです。
発起衆はみなの気持ちを知っている、一般の代表者という意味になるのです。
それを発起衆という。

それなのに質問会を進めていくと、勝手なことをいいだすのです。

たとえていえば病気なら病気のことを聞くでしょう。
いいですよ、この中にだって病気で悩んでる人がいるのですから、病気のことを聞いてはいけないということはありません。
しかし、あの人はこの程度でなおるといわれたのだから私のもなおるのだと、こう承知したらどうですか。

これを当機衆というのです。

ああそういうものかな、もっと信心して、もっとわかろうといえば
結縁衆です。

このとおりでありました、私はそういう体験をもっておりますといえば、これを影響衆といいます。

借金の話なら借金の話でこれも仕方のないことでしょう。
仏法の話なら仏法の話で、いいことでしょう。
また学会に関することを聞くならそれもいいことでしょう。

ただ、同じことを重ねて聞かないようにしなさい。
それだけを心得ていることです。

発起衆は、自分だけ聞けばあとはいいのだというのでは、質問の意味はないと思う。

それならば支部長でも間に合うことだし、地区部長がおかしいことをいったと、あれでは私は腑におちないというなら、全地区部長に対するいい方になりますから、この発起衆の考え方、問い方はいいでしょう。


また小児マヒの子供をもっているとするのです。
このなかにもいるかもしれませんが、これは原論上いつもいっていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。

親が子に悩む宿命を持ってきたのだから子供に罪はない
ところで折伏すれば小児マヒの子を持つ必要がないという宿習に変わる、子供はそこにおれないでしょう。

するとどうなります。

ちょうどシラミを持っていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはどこかへ行かなければならなくなる。
理くつはこれと同じことです。
小児マヒにしても一つの魔ですから、その親の側にいなくなる以外にない。
ここが、いつも教えるところなのです。


これ一つがわかれば小児マヒの話はきく必要はないでしょう。
それを何べんでも同じことをきく、ここらで小児マヒの話が出るとあっちでもこっちでもと.....。

まるで小児マヒの病院へきたみたいなものです。
本山だか小児マヒの病院だかわけがわからなくなってしまう。

借金の話がこっちで出ると、あっちもこっちも借金の話ばかりで、なんだか裁判所へきたみたいです。

そうならないように質問してもらいたい。

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by taicyan0402e | 2018-09-27 19:49 | 教義的 | Comments(0)

本当のドン

中国かな、おそらく
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by taicyan0402e | 2018-09-27 19:48 | 組織関連など | Comments(1)

戸田城聖『質問会集』より、南無妙法蓮華経とは(信仰に関する質問)

戸田城聖『質問会集』(昭和38年8月2日初版)
7ページ~8ページより


[問1]「南無妙法蓮華経」とは、どのような意味があるのでしょうか


南無とは帰命、すなわち妙法蓮華経に絶対にしたがうという意味です。
妙法とはわれわれ人間の智ではかり知れぬ不思議な法であり、蓮華の法であります。

われわれは泥沼にいるのです。
泥沼から咲く花は美しい、華と果が功徳となって現われる、これが因果倶時であります。
経とはわれわれがありがたいと思うことです。
これ自体が、われわれの運命を支配するのです。

別な立場からこれを拝せば、無作三身如来(むささんじんにょらい)すなわち根本の仏様であり、永遠に不変の仏の御名をいいます。

末法にはいっては日蓮大聖人様であり、日蓮大聖人様御自身所有の、久遠元初(くおんがんじょ)のありのままの生命と力とを、大御本尊様にしたためられたのが、法本尊即日蓮大聖人様、人本尊です
すなわち人法一個であります。

われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわれの生命に感応して湧いてくるのです。
われわれもやはり、ありのままの永遠真如(しんじょ)の自分にかわるのです。
これが「南無妙法蓮華経」の実体であります。

さらに、私の体験から話をします。
いまから十年前に「仏とは何であろうか、いるのか、いないのか」と考え、仏教書を読んだがわからず、無量義経(むりょうぎきょう)につきあたりました。

それには「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、……動に非ず閑静に非ず」(無量義経徳行品第一)とあり(「其の身は有に非ず亦無に非ず....紅に非ず紫種種の色に非ず」(無量義経徳行品第一)とあり)、真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました。
そして十界論から南無妙法蓮華経と仏とはいかなる関係かを悩んだすえ、仏の名であることがわかったのです。
あらゆる人の宿命を、転換し得る力を備えられた久遠元初の、宇宙の根本の力、最高の仏と気づき、これよりあらゆる仏典が読めるようになりました。

宇宙の現象は、みな妙法蓮華経の活動であります。
妙法とは一応われわれの心であり、蓮華とは体のこと、泥沼より清浄な開花をみせる蓮のごとく、欲ばり、ひねくれた根性で、泥中(でいちゅう)にいるような者も、蓮華の清浄さをたもつ体になれるのです。
経とは心と体の働きをいいます。

さらに、貧乏人が金持ちになるように奇蹟のような、説明のつかぬ現象が起こる、これを妙法というのです。


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by taicyan0402e | 2018-09-26 20:58 | 教義的 | Comments(0)

「小樽問答」には昔の学会教義の宝庫

「小樽問答」とは、学会が宗門と和合時代に、日蓮宗と「法論」をしたもの
昔の学会教義の宝庫というしかないですね
昔の学会の雰囲気そのままです

当記事では本尊論が学べる部分について

辻 武寿
大正七年四月三日埼玉県に生る、昭和十三年東京府豊島師範学校卒業
昭和十五年七月入信、当時、創価学会青年部長・教学部教授・蒲田支部幹事。
のち公明党参議院議員、創価学会副会長・參議会議長。

この方が学会側代表しての部分から

▽▽▽
それはさておきまして私は身延山に一言いたしたい。

宗教で最も大事なことは本尊である。本尊とは、本尊とは「根本を尊敬する」ということであります。
しこうして日蓮大聖人は「末代悪世の凡夫は何物を何て本尊と定むべきや、答えていわく法華経の題目を以て本尊とすべきなり」。

明らかに御妙判に明言しておられるのであります。

ところが先日身延山へ行って驚きました。
まずお釈迦様の像があると思えば、日蓮大聖人の像もある。

七面山へ行けば七面大明神とか、七面天女とか申しまして、犬やら蛇やらえ体のわからないような畜生が祀ってある。
そのほか、稲荷が祀ってあるかと思えば大黒天が祀ってある。
餓鬼道も畜生界も修羅界も何でも構わず拝んでいるというのが現身延派の現状であります。
「法華経の題目を以て本尊とすべきなり」という日蓮大聖人に対する師敵対といわなくって何ということが出来ましょうか。

そうかと思えば三十種類もの色々のお守りがありまして、祠という祠、そういうところには至る所にお賽銭箱があって、信心なんかどうでもいい、賽銭さえ上ればいい。

これが身延派の現状なんだ。

経王殿の御書には、「鬼子母神、十羅刹女、法華経の題目を持つ者を守護すべしと見えたり」。

鬼子母神も、法華経をたもってこそ大聖人様の御本意である御曼荼羅を拝してこそ、自分の頭を割れようとも飛んできて守護するというのが鬼子母神の願いなんだ。
我々は鬼子母神の所へ行って何を頭を下げて拝む必要がある。我こそ大聖人様の子として弟子として、末法の法華経の行者として広宣流布のために邁進している時に、鬼子母神が飛んできて仕えるはずであります。

いわんや、畜生、龍神を拝むということは何事であるか。
開目抄において「諸宗本尊に迷えり」。
大聖人様は喝破せられております。

身延には身延には、定まった本尊がない。
日蓮大聖人様の、大聖人様の仰せられた本尊を拝んでいない。
釈迦を拝めとは誰がいったか。
ましてや丈六の劣応身、三藏経の劣応身を拝むということは大聖人様の意志にも反することである。

我々創価学会は大聖人様の御本意である弘安二年の十月十二日の本門戒壇の大御本尊様に向って、ただ一つの本尊に対して、心から帰依しているから功徳があるのであります。

この本尊雑乱に対して、身延山はいかに大聖人様にお答えするつもりでありましようか。

いかに創価学会に対して返答をするつもりであろうか。明らかなる返答を承りたいと思うのであります。

また、身延山は非常に貴いところである。尽未来際までも日蓮大聖人の魂がお棲みする所であるから身延は尊いのだ、とこう身延では主張するのであります。

しかし考えてもごらんなさい。何が何でも身延は尊いとは日蓮大聖人は仰せられてはおりませんよ。

「法妙なるがゆえに人貴く人貴きがゆえに処貴し」。

妙法が、清らかな妙法が続いてこそ身延山も貴かったのでありますけれども、今このように鬼子母神や龍神や大黒天や稲荷を祀っていたならば、たとえ大聖人様の御魂があるとしても、そこを捨て去るのが当然の結果だと思います。

また「かかる不思議なる法華経の行者の住所なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」と。

霊山浄土は大聖人様の御本懐である本門戒壇の大御本尊様のおわせる富士大石寺こそ本当の霊山浄土でなくて、どこに霊山浄土がありましょうか。

拝む本尊が貴ければその本尊が感応してこちらに功徳が出るのであります。

稲荷を拝めばピョンピョン飛びまわる。
蛇を拝めばのた打ちまわる。
犬を拝めば匂いが強くなるけれども畜生道に堕ちるのだ。

身延山こそ師敵対大謗法の棲み家であります。

また身延山ではいろいろな荒行をする。水をかぶったり祈祷をしたり、そういうことは大聖人様が許されたでありましょうか。
「利根と通力とには依るべからず」又荒行するなんて外道のやる、バラモンのやることです。

大聖人様の教えは、ただ御本尊様に向って南無妙法蓮華経と唱え、朝に夕に方便品と寿量品を読誦するというのが大聖人様の仰せなんだ。
この清らかな仏法はただただ日蓮正宗にのみ伝わっておる仏法であり、他宗の窺い知れないところであります。

私は本尊雑乱ということを以て、徹底的に身延を爆撃する。
これに対して身延の明らかなる返ことを重ねて承わりたいと思います。
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by taicyan0402e | 2018-09-23 19:25 | 教義的 | Comments(0)

戸田先生曰く「諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい。」

※和合時代の背景がありますので注意して読む必要あり

戸田城聖『質問会集』(昭和38年8月2日初版)
12ページ~17ページ

[問5]弥四郎国重という方と、一閻浮提総与の御本尊様との関係は、どういう関係でしょうか。


[答]邪宗のものが「大御本尊様の対告衆(たいごうしゅう)が弥四郎国重となっているが、法華講中弥四郎国重という方は存在していない」という。


これが一般の断定なのです。
また、これを、熱原三烈士の一人となぞらえている人も、学説上あります。
南条殿の子供と断定している人もあります。

だが、だいたいの学説においては仮空の人ということになっています。
これは私は、もっともなことだと思います。

なぜ、日蓮大聖人様が「法華講中弥四郎国重」として、弥四郎国重を大御本尊様の対告衆にしたかという問題なのです。
これはよほど仏法に通達してこないとわかりません。
しろうと論議だと納得できないことです。少なくとも、信仰に透徹して、仏法の奥儀がわかれば、ごくかんたんな問題なのです。

なかにはこういう議論を立てる者もいます。

「大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を日興上人になさらないのか」と。

それは、日興上人を対告衆としたのでは一閻浮提総与とはならないのです。
この一閻浮提総与の御本尊すなわち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべきものなのです。

ここで問題が一つあります。

そのまえにいっておきますが、私がおどろいたことが一つあります
それは、私が東之坊を創価学会として総本山へご寄進申し上げたときのこと、僧侶から話がありまして
「仏器から御厨子(おずし)までぜんぶ私がお引き受けしますから、あとはよろしく取り計らっておいてください」といったのです。

そうしましたら、東の坊の御本尊の対告衆は私になっているのです。
ほんとうなら東の坊に御僧侶がいらっしゃるのですから、その御僧侶へお下げ渡しになったらいいはずでしょう。

「私の名前でやってください」といったのではないのです。

しかるに、御本尊お下げ渡しの原則によって、私にお下げ渡しになっている形になっています。
しかし、あの御本尊様は東の坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。
ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく考えてもらわなければなりません。

そこで、弥四郎国重の問題ですが、対告衆に一連のものがあるのです。

まず法華経の読み方がわかっていれば、弥四郎国重の問題もわかってきます。
法華経がりっぱな経典であることは、だれでも認めています。
そのなかに書いてあることを、まず認めなければなりません。

ところが日蓮大聖人の御書にも、序品八万の大衆ということばが使われていますが、序品八万の大衆はどうなるでしょうか。

経文には、そこに集まった人の名前が記されています。
まずはじめは舎利弗(しゃりほつ)、神通第一の大目墓連(だいもっけんれん)、その他の阿羅漢(あらかん)を集めて万二千人となっています。

菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)八万人、摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)の眷属(けんぞく)六千人、名月(みょうがつ)天子その他の天子の眷属数万人、跋難陀(ばつなんだ)竜王などの眷属、これも、何万人、かくして集まった阿闍世王(あじゃせおう)の眷属何千人。ソロバンにおいてみたことはないのですが、霊鷲山(りょうじゅせん)へ、ざっと二、三十万集まっています。

そうしたらどうでしょう、そんなにたくさん集まれますか、一つの都ができてしまうではないですか。

しかも八大竜王もきています。
阿修羅王(あしゅらおう)もきています。

そんなものがきているわけがないではないですか。
かりに集まっても便所の設備だけでもたいへんです。

八年間もそんなに集まって、いくら釈尊が仏でも二十万、三十万に聞かせる声がありますか。
そうなってくると霊鷲山に集まったというのは、おかしいではないですか。
菩薩が八万人も集まるわけがないではないですか。

本山に七万人の人が御遷座敷(ごせんざしき)に集まっても、あのさわぎです。
いま三千人集まってもこの騒ぎではないですか。
山の中です、広場ではないのです。

そうなったら仏法上の根幹をなす「序品八万の大衆」はどうなりますか。

日蓮大聖人様は、はっきりとお認めになっています。
しかも事実の研究の上からゆけば、そんなものはありません。
ないものを書いた法華経は、信用できなくなるでしょう。
もし法華経がだめだとなれば信ずるものがなくなってしまいます。

それは何十万でもかまわないのです。

なぜかならば、釈尊己心(こしん)の舎利弗であり、釈尊己心の八万の菩薩であります。
釈尊己心の提婆達多(だいばだった)であり、釈尊己心の八大竜王であります。

死んでそこにはいないはずの舎利弗にも、己心の舎利弗なるゆえに話しかけ得たのです。
釈尊の胸に集めた何十万の人、それを対告衆として法華経を説いているのです。

生命の実相をはっきりしなければ、法華経の序品から読めなくなってきます。
よく「法華経を読みました」などという人がいますが、おかしくてたまりません。
読めるものですか、読めるわけがありません。
大御本尊を信じないで、読めるわけなんかありません。

もし、ありとすれば、大御本尊を信じないまでも、大御本尊を知りぬいていえなかった竜樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)、天台、妙楽はこのかぎりではありません。
読めていたのです。

その意味からいきますれば、弥四郎国重は法華経をひろむべきいっさいの人を代表した人物、日蓮大聖人己心の弥四郎国重なのです

実在の人物ではない。
実在の人でなくても、いっこうさしつかえないのです。

歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、仏法哲理の上からゆけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから、日蓮大聖人のお考えとしては、もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、その者にお下げ渡しになっているのですから、そんなこと、実在であろうとなかろうと、考えなくともいいことになってきます。


第一、智者の舎利弗の議論にたいして、寿量品を立て、生命を捨てて守護する信者を代表して、己心の弥四郎国重を日蓮大聖人は立てられたのです。

諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい。
これは私はたくさんの人の中では話しません。

もしこれを話して、あなた方がこれを人に話していい負かされたり、自分の心に疑いを起こしたりしたならば、かならずや罰を受けねばなりません。

それほど重大な本尊論の問題でありますから、めったに話したことはありません。
ごく側近の者に話したことがあります。

本日はもしこれをいわなければ、なおさら疑いを起こす時期にきているように思いますからして、やむなく問いにまかせて答えました

これは絶対にまちがいのないことですから、信じていただきましょう。


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by taicyan0402e | 2018-09-22 19:18 | 教義的 | Comments(6)

今どき珍しい記事を見つけた

経緯は知らんけど、今どき珍しい記事を見つけた。

http://sokataiyaki.blog.fc2.com/blog-entry-63.html
【日蓮正宗の信徒さん、との対話 - シニフィエさんとの対話】

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もし、何らかの理由で身延一派に「大御本尊」を強奪され、身延山に「大御本尊」が安置されたならば、貴殿はどうされますか?

大聖人を本仏と認めてない身延へ参拝されますか?
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質問の趣旨とは違うのだろうけど、「もし」大御本尊様が身延に「強奪され」というこの「状況」までも視野に入れたらえらくややこしい質問かも?f^^;
大御本尊様をなぜお守りすることができず「強奪され」なんて起こった?という質問文面にはない部分ね。
他に、【大聖人を本仏と認めてない身延】が【身延山に「大御本尊」が安置されたなら】なんてそもそもありえない無茶な質問といえば無茶な質問だけどf^^;
まして強奪なんてのはf--;
まぁ「仮の質問話」で質問の趣旨からしてそこまでは考えなくともよい、ということなのだろうけどf^^;

たぶん質問の趣旨だろうことを視野に入れると【日蓮正宗になんら非がない状況にて、身延山に「大御本尊」が安置されたならば、大聖人を本仏と認めてない身延へ参拝されますか?】という質問になるのでしょうか。

まぁこれでも相当ムチャな質問になるかf^^;

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by taicyan0402e | 2018-09-20 19:03 | 『ブログ村』の様子について | Comments(3)

功徳のコツは感謝をもって御本尊様に向かいましょう!

「御本尊様へ感謝をもって向かうのがコツ」といったのが昔は普通に聞いたものですね。
御本尊様は明鏡ともよくいわれましたね。

『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ』
(御書557ページ・法華初心成仏抄)

この御書でいえば『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて』は、
我が心の「感謝(の一念)」を本尊とあがめ奉りて、ということに等しいのですね。

つまりは、妙法蓮華経とは感謝の一念そのものなんじゃないか、そう僕は感じるのですよ。
つまりは南無「感謝」ということですね。
それが表面上は「御本尊様に感謝をもって向かう」ということになるのでしょうね。

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by taicyan0402e | 2018-09-19 20:58 | 御書・御文 | Comments(0)