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『小樽問答』から
衆生の心が御題目に結びつけられた時に、それが本尊というのであります。御題目は大聖人の又、仏様の御魂である。 この御魂に我々が信ずる時、そこに本当の本尊が開顕せられるのであります。 その、その本尊の、その本尊の全体を日女御前御書には衆生の信心の妙法に対する御題目の信心のところに真の本尊があるぞ、とこうお示しになってあります。 狐を、狐を拝むということは決して、決して、決して……身延においては、狐を拝むということはないのであります。 身延においてもそれは実行しておるのであります。
えー、次に小平先生…… 学会側・小平芳平 特に、特に私が具体的にお聞きしたいことは、それでは、もし弘安二年の御本尊が駄目だ、もし日蓮正宗が駄目だというのなら、どこの信仰が正しいのか。 狐や稲荷を、鬼子母神を、それを祀っているような、それが大聖人様の教えであるか。 えーしかしながら、そのことは、すでに私も実際に雑誌に発表してあります。 ただいま、長谷川先生は戒壇の御本尊が、弘安二年の御本尊が、初めて記録に現れたのは家中抄だと仰せられる。 しかしながら、そうではないんです。 そういうことを知らないのです。 それから、それではもっと昔になぜ記録が無いかというんですよ、これはです、信心が無ければ御本尊はわからないのですよ。 五老僧どもをはじめ、波木井殿にしても、何でもかでも、釈迦を本尊としようとした。 あるいは、お曼荼羅が要らないなら、要らないということをお聞きしたい。以上
by taicyan0402e
| 2018-10-05 08:40
| 教義的
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