フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

<徐々に最優良ブログの紹介をしていきます>
21世紀の日蓮仏法
kaede-midoriのブログ
英語で創価
創価学会男子部・ゴチえもん BLOG
広布の大河に君ありて
内得信仰の日々のブログです(歓喜の中の大歓喜編2018.10.21~)
by 太ちゃん
メモ帳
検索
最新の記事
最新のコメント
情報があまりにも少ないの..
by eco◆Smw69 at 17:11
近年の集中的な自然災害 ..
by taicyan0402e at 08:49
「捉え方」によってだけれ..
by eco◆Smw69 at 22:46
あ!そうだった 太ちゃん..
by eco◆Smw69 at 10:23
一口に中国で片付けると言..
by eco◆Smw69 at 11:00
あべひは寿命が来るまであ..
by taicyan0402e at 18:01
カテゴリ
以前の記事
記事ランキング
外部リンク

戸田城聖『質問会集』より、「ここが、いつも教えるところなのです」

戸田城聖『質問会集』(昭和38年8月2日初版)
1ページ~4ページから

こういう大衆の質問会には、質問をする人を大きく分けると二色あるのです。
すなわち真実に求めて聞こうとする味方と、やっつけてやろうという敵側とあるのです。

また質問を受ける方にも、受ける場所によって覚悟があります。
やっつけてやろうという連中ばかりいるところへ行く場合には、それだけの腹がまえがいるのです。
行って、めちゃめちゃにやられては、たまったものではありません
ところが仏法のうちでは、たいてい味方で、自分のわからんことを聞きたいと願っているのがふつうなのです。

それで私には敵でも味方でも、どっちでもいいのです。
やっつけてやろうというなら、やろうという腹でやってもらいたい

質問するのには、敵であろうと味方であろうと、仏法の上には規則があります。

それはいかなる経文におきましても、仏は「四衆に囲繞せられ」ということばが、まず最初にあります。
これは四つの種類の人に囲まれてということであります。
その四種の人というのを説明します。

まず影響衆という人がいます。

経典はぜんぶ一つの質問会です。質問のないのは方便品だけですが、あれは無問自説といって、乱暴な経文なのです。
釈尊の経典というのは、みな質問があります。
質問をもって問い、問いがあって仏が答えをおこす。

日蓮大聖人様の御書もぜんぶそうです。

問いがあって答えをおこす、その時にその形の中にいまいう四種類があるのですが、影響衆といいますのは、かならず釈尊の説法をたすけ、日蓮大聖人様では五種の説法をたすける人であります。

また当機衆といいまして、その説法を聞いてわかる人がいます。
結縁衆といいまして、そこで縁を結ぶ人がいます

それからもっとも大事な発起衆といいまして、質問をおこす人、この人が、そこに集まった人たちが聞かんとすることを、問いおこすのです。
自分だけのことではないのです。
発起衆はみなの気持ちを知っている、一般の代表者という意味になるのです。
それを発起衆という。

それなのに質問会を進めていくと、勝手なことをいいだすのです。

たとえていえば病気なら病気のことを聞くでしょう。
いいですよ、この中にだって病気で悩んでる人がいるのですから、病気のことを聞いてはいけないということはありません。
しかし、あの人はこの程度でなおるといわれたのだから私のもなおるのだと、こう承知したらどうですか。

これを当機衆というのです。

ああそういうものかな、もっと信心して、もっとわかろうといえば
結縁衆です。

このとおりでありました、私はそういう体験をもっておりますといえば、これを影響衆といいます。

借金の話なら借金の話でこれも仕方のないことでしょう。
仏法の話なら仏法の話で、いいことでしょう。
また学会に関することを聞くならそれもいいことでしょう。

ただ、同じことを重ねて聞かないようにしなさい。
それだけを心得ていることです。

発起衆は、自分だけ聞けばあとはいいのだというのでは、質問の意味はないと思う。

それならば支部長でも間に合うことだし、地区部長がおかしいことをいったと、あれでは私は腑におちないというなら、全地区部長に対するいい方になりますから、この発起衆の考え方、問い方はいいでしょう。


また小児マヒの子供をもっているとするのです。
このなかにもいるかもしれませんが、これは原論上いつもいっていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。

親が子に悩む宿命を持ってきたのだから子供に罪はない
ところで折伏すれば小児マヒの子を持つ必要がないという宿習に変わる、子供はそこにおれないでしょう。

するとどうなります。

ちょうどシラミを持っていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはどこかへ行かなければならなくなる。
理くつはこれと同じことです。
小児マヒにしても一つの魔ですから、その親の側にいなくなる以外にない。
ここが、いつも教えるところなのです。


これ一つがわかれば小児マヒの話はきく必要はないでしょう。
それを何べんでも同じことをきく、ここらで小児マヒの話が出るとあっちでもこっちでもと.....。

まるで小児マヒの病院へきたみたいなものです。
本山だか小児マヒの病院だかわけがわからなくなってしまう。

借金の話がこっちで出ると、あっちもこっちも借金の話ばかりで、なんだか裁判所へきたみたいです。

そうならないように質問してもらいたい。

[PR]

by taicyan0402e | 2018-09-27 19:49 | 教義的 | Comments(0)
<< 戸田城聖『質問会集』「弘安二年... 本当のドン >>