フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

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戸田城聖『質問会集』 昭和38年(初版)より

戸田城聖『質問会集』 昭和38年(初版)
1~4ページより

▼▼▼▼▼▼
こういう大衆の質問会には、質問をする人を大きく分けると二色あるのです。

すなわち真実に求めて聞こうとする味方と、やっつけてやろうという敵側とあるのです。

また質問を受ける方にも、受ける場所によって覚悟があります。
やっつけてやろうという連中ばかりいるところへ行く場合には、それだけの腹がまえがいるのです。
行って、めちゃめちゃにやられては、たまったものではありません。

ところが仏法のうちでは、たいてい味方で、自分のわからんことを聞きたいと願っているのがふつうなのです。
それで私には敵でも味方でも、どっちでもいいのです。
やっつけてやろうというなら、やろうという腹でやってもらいたい。

質問するのには、敵であろうと味方であろうと、仏法の上には規則があります。
それはいかなる経文におきましても、仏は「四衆に囲繞(いにょう)せられ」ということばが、まず最初にあります。

これは四つの種類の人に囲まれてということであります。
その四種の人というのを説明します。

まず影響衆という人がいます。

経典はぜんぶ一つの質問会です。質問のないのは方便品だけですが、あれは無問自説といって、乱暴な経文なのです。

釈尊の経典というのは、みな質問があります。
質問をもって問い、問いがあって仏が答えをおこす。
日蓮大聖人様の御書もぜんぶそうです。

問いがあって答えをおこす、その時にその形の中にいまいう四種類があるのですが、影響衆といいますのは、かならず釈尊の説法をたすけ、日蓮大聖人様では五種の説法をたすける人であります。

また当機衆といいまして、その説法を聞いてわかる人がいます。
結縁衆といいまして、そこで縁を結ぶ人がいます。

それからもっとも大事な発起衆といいまして、質問をおこす人、この人が、そこに集まった人たちが聞かんとすることを、問いおこすのです。

自分だけのことではないのです。
発起衆はみなの気持ちを知っている、一般の代表者という意味になるのです。
それを発起衆という。

それなのに質問会を進めていくと、勝手なことをいいだすのです。

たとえていえば病気なら病気のことを聞くでしょう。
いいですよ、この中にだって病気で悩んでる人がいるのですから、病気のことを聞いてはいけないということはありません。

しかし、あの人はこの程度でなおるといわれたのだから私のもなおるのだと、こう承知したらどうですか。
これを当機衆というのです。
ああそういうものかな、もっと信心して、もっとわかろうといえば結縁衆です。
このとおりでありました、私はそういう体験をもっておりますといえば、これを影響衆といいます。

借金の話なら借金の話でこれも仕方のないことでしょう。
仏法の話なら仏法の話で、いいことでしょう。
また学会に関することを聞くならそれもいいことでしょう。

ただ、同じことを重ねて聞かないようにしなさい。
それだけを心得ていることです。

発起衆は、自分だけ聞けばあとはいいのだというのでは、質問の意味はないと思う。
それならば支部長でも間に合うことだし、地区部長がおかしいことをいったと、あれでは私は腑におちないというなら、全地区部長に対するいい方になりますから、この発起衆の考え方、問い方はいいでしょう。

また小児マヒの子供をもっているとするのです。
このなかにもいるかもしれませんが、これは原論上いつもいっていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。

親が子に悩む宿命を持ってきたのだから子供に罪はない。
ところで折伏すれば小児マヒの子を持つ必要がないという宿習に変わる、子供はそこにおれないでしょう。
するとどうなります。
ちょうどシラミを持っていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはどこかへ行かなければならなくなる。
理くつはこれと同じことです。
小児マヒにしても一つの魔ですから、その親の側にいなくなる以外にない。
ここが、いつも教えるところなのです。

これ一つがわかれば小児マヒの話はきく必要はないでしょう。

それを何べんでも同じことをきく、ここらで小児マヒの話が出るとあっちでもこっちでもと.....。
まるで小児マヒの病院へきたみたいなものです。
本山だか小児マヒの病院だかわけがわからなくなってしまう。
借金の話がこっちで出ると、あっちもこっちも借金の話ばかりで、なんだか裁判所へきたみたいです。

そうならないように質問してもらいたい。
▲▲▲▲▲▲

戸田先生の指導ですが、質問会の最初に言われたものでしょう。

この記事では上記部分より、次の部分に注目したいです

▽▽▽▽▽▽
また小児マヒの子供をもっているとするのです。
このなかにもいるかもしれませんが、これは原論上いつもいっていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。

親が子に悩む宿命を持ってきたのだから子供に罪はない。
ところで折伏すれば小児マヒの子を持つ必要がないという宿習に変わる、子供はそこにおれないでしょう。
するとどうなります。
ちょうどシラミを持っていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはどこかへ行かなければならなくなる。
理くつはこれと同じことです。
小児マヒにしても一つの魔ですから、その親の側にいなくなる以外にない。
ここが、いつも教えるところなのです。

これ一つがわかれば小児マヒの話はきく必要はないでしょう。
△△△△△△

上記部分は宿業が解決すればどうなるか?ということを「小児マヒ」を持つ親子というのを具体例にして戸田先生が解説した内容です。

『ちょうどシラミを持っていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはどこかへ行かなければならなくなる。
理くつはこれと同じことです。』

この部分でいう「シラミ」とは宿業を「シラミ」として喩えてるものですね。

○○○
ちょうど宿業を持っていたとする、生命をきれいにして生命の癖をきれいにすれば、宿業はどこかへ行かなければならなくなる。
理くつはこれと同じことです。
○○○

病気にしろお金の悩みにしろ、本質はそういうことで悩むことになる「生命の癖」が宿業として出てる、ということなんですね。
だから「生命の癖」を直せば宿業は消える、と戸田先生は言われてる。

いうまでもなく「生命の癖」は他人のことを言ってるのではなく悩みを持つ人自身のことを言われてるのですね。

そういう悩みを持つことになってる「生命の癖」を信仰でひとつひとつ綺麗に直していきましょう!
と戸田先生の大きく包み込む慈愛が感じられるものですね(^^)

ひとつひとつ生命の癖を直していくこと、これは河合師範の有名な指導と繋がりますね。

http://nitiren21.blog.shinobi.jp/%E8%B3%87%E6%96%99/%E6%B2%B3%E5%90%88%E5%B8%AB%E7%AF%84%E3%81%AE%E6%8C%87%E5%B0%8E%20%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%88%9010%E5%B9%B46%E6%9C%882%E6%97%A5%E5%AF%9D%E5%B1%8B%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BC%9A%E9%A4%A8
【河合師範の指導  平成10年6月2日寝屋川文化会館】21世紀の日蓮仏法さんの記事
より

21世紀の日蓮仏法さん、良質な記事を毎回ありがとうございますm(_ _)m

いくつかピックアップしましょう


●●●

「いや、私は信心強盛です。」「でも不信じゃない」「じゃあどうすればいいの?」「いつまでにどう解決したいですか?そう決めて祈ってご覧なさい。」と言われて、そう決めて祈ったら2週間で解決したそうです。

唱題ではなく祈りが大事。

○○○

変わるためにやるもの。何が変わるのか?生活が変わり、生命が変わり、環境が変わる。変わるための信仰。
頑張ってれば変わるのではない。変わるために頑張るべきなんです。「頑張ります!」ではつまらない。
「変わりましょう!」
「変わります!」「変わりました!」これを『信心の三段活用』と言う。

○○○

信仰というのは、行動の因果ではない。ただ頑張ればいいのではなく、一念の因果、どういう一念で頑張るか、
その一念に功徳がある。頑張っても結果のでないのは一念が間違っているから。行為は正しい。
一念が間違っていれば空回りになったり、功徳がなかったり、マイナスになることもあり得る。

心こそ大切とよく言われる。ただ頑張ればよいと言うのは間違っている。一念の因果だから。

○○○

それを御本尊に強く祈って必要な行動をすれば必ず結果がでる。決めて祈り、祈って動くこと。
意外とこれを決めないで頑張っている。婦人部が祈っているのは成果だけ。変わろうと思っていない。
だから、功徳が出ないから行き詰まってしまう。変わろうと決めて、祈って動けば結果がでる。信心は簡単です。

○○○

「こうしたい!」「こうなりたい!」と祈ること。必ずそうなる。「困った!御本尊!以上終わり!」
簡単です。これを『南無』と言う。南無というのは、「生命を任せます!」と言うこと。「お願いします。
あとはよろしく!」これで良い。

でも結構任せていない人が多い。「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」
と祈っている。だからそうなる。願い通り。できないと決めたら御本尊不信。だめだと決めたら御本尊不信、
自分の中の甘さも御本尊不信。願ってお任せ。「お願いします!あとはよろしく。」これでよい。

○○○

「信心していれば何とかなる。」というのは迷信の一種。
何ともならない。祈った分しか結果は出ない。それが信仰だから。
活動家の皆さんは、みんな勤行・唱題し活勤をしているが、功徳を受けてどんどん変わる人と、
全然変わらない人、悪くなる人がいる。どこが違うのか?一念の姿勢が違う。

○○○

では、これからどうすればいいのか?前向きに、強気に、過去のことは反省しないこと。
反省してもどうせまたやるんだから。生命が変わらないとまたやるから。決意すればよい。

これから良くなればいい。後ろ向き運転は事故の元。過去のことは振り返らないこと。良くなれぱいい。
過去のことが活きてくるから。振り返っても落ち込むだけ。いつも前向き、強気でいい。

○○○

唱題ではなく祈りが大事。

具体的に強く祈ること。そうすれば叶う。それ以外は叶わない。唱題のための唱題もつまらない。
先生は「疑いや形式であれば、たとえ100万遍あげても境涯が開けるものではない。自分自身の発心で、
目標を決めて唱題すれば必ず開けるのである。

義務的・形式的な勤行・唱題、それは惰性のあらわれであり、
空転を生むだけである。きちんと一念を定めて祈らなければだめだよ。」と言われている。

○○○

功徳の出るのは当たり前。出ないのがおかしい。これを『信心の正常化』という。祈りは叶う。
祈ってないから叶わないだけ。信ずるとは疑わないこと。

どうしたら疑わないか?自分が体験したことは疑わないから信じる。この体験は活動体験ではなく功徳の体験。

●●●

いかがでしょうか。
戸田先生の宿業の話と河合師範の「変わる」ための「祈り」の指導。
生命の癖を「変える」ための一念の「祈り」の唱題。
「ひとつひとつ生命の癖を変える祈り」が自分自身を変え(冥益)、自分が変わったことで周囲にそれが波及することで必要な顕益も起こるのですね。

素晴らしい信仰です(^^)

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by taicyan0402e | 2018-01-02 09:18 | 教義的 | Comments(0)
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