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立正安国論の指導原理について ~1~ の続き 【立正安国論の指導原理について】宿坊の掲示板より 投稿者:大仏のグリグリのとこ http://6027.teacup.com/situation/bbs/16857 小説『人間革命一巻』には 「愚かな指導者に率いられた民衆ほど哀れなものはない」――とあるように、 指導者の誤りほど恐ろしいことはありません。 指導者の誤りは、国内を混乱させ、民衆を不幸のどん底に落とします。 さらには、国を滅亡に導き、民衆をしてその後、何百年、何千年と悲劇の道をたどらせることにもなるのです。 だから、個人の幸福を説く仏法が、単に個人にとどまらず、 指導者と仏法の関係を強調するのは当然のことです。 誤った指導者が、いかに民衆を不幸のどん底にし、 社会を滅ぼすものであるかは、古今の歴史がよく物語っています。 宗教界においては、日本天台宗しかり、日蓮正宗しかりです。 立正安国論に示されたこの四経(金光明経、大集経、仁王経、薬師経)の文は、 指導者こそ、正法をたもたなければならないことを教えているのです。 そして主人は、 「以上のように、この四経の経文はまことにはっきりしている。 誰人たりとも、これを疑うことはできない。 しかし、道理に暗く、法の正邪の区別がつかない人や、 正邪に迷っている人が、邪説を信じて正しい教えをわきまえず、 すべての諸仏や衆経に対して、無関心になり、捨て、離れる心をおこし、仏法を護る志がない。 そのため、諸天善神も聖人も、その国を捨てて他所へ去ってしまい、 かわって悪鬼、外道が災難を起こすのだ」(二〇頁)と結論するのです。 災害の起こる理由は、 第一に、人々が悪思想を信じること。 第二に、そのために道理が通らなくなり、弱肉強食の力の論理が幅を利かす社会になること。 第三に、悪思想が社会に蔓延し災難が起こること、の三つです。 これを道理と経文によって、主人は明らかに示していきました。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/16858 ここで私たち会員が、もっとも注意し大事にしなければいけないのは、 大聖人が経文を第一に引かれる深意です。 実際、この立正安国論全体の構成を見ても、全文の五十一%が「経文と釈論」に費やされ 「主人」のところだけを見ても、主人の主張が三十六%、経文が六十四%に費やされていることです。 この事実からも大聖人がいかに経文第一に、仏法を実践していたかがわかります。 これを明鏡としてみた場合、私たちはどうでしょう。 ――御書根本に、池田先生の指導通りに信心を実践し学会活動していますか。 会員に、自身の我見や経験知だけを押し付けていませんか。 組織至上主義に陥っていませんか、権威主義に陥っていませんか――。 創価学会は、永遠に人間主義であり、平和主義であり、対話主義です。 その根底は日蓮大聖人の立正安国の思想であり、創価三代の思想・指導が根本なのです。 さて、この結論を聞いた「客」は、どんな反応をしたのでしょうか。 今度はそれを見ていきたいと思います。 結論を聞いた客は「色を作して曰く」(二〇頁)とある通り、顔色を変えて怒ったのです。 なぜでしょう。 なにが客を怒らす原因になったのでしょうか。 それは「道理に暗く、法の正邪の区別がつかない人や、正邪に迷っている人が、 邪説を信じて正しい教えをわきまえず、すべての諸仏や衆経に対して、無関心になり、 捨て、離れる心をおこし、仏法を護る志がない」(同頁)と言ったことに怒ったのです。 客からすれば、 「中国から日本に仏教が伝わって来たとき、仏教を排除しようとした物部守屋を聖徳太子が退治し、 仏教を興隆させたではないか。その後は多くの寺院を建立し、天皇から万民にいたるまで、 仏像を崇め、経巻をひもとき、読誦してきた。 そして多くの僧たちは教法を守り、教法を尊ぶ伝統を今日まで伝えている。 それなのに、釈尊一代の教えを破り、汚し、仏法僧の三宝を廃し、 仏法がないとは、誰が言えるのか。 もし、その証拠があるなら、詳しくその理由を聞きたい」(同頁)と怒りながら反論したのです。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/16859 私たちに置き換えて考えても、この客の反論は納得できます。 もし主人から、 「今の学会員は道理に暗く、法の正邪の区別がつかない会員や、 正邪に迷っている会員が多い。 組織の言うことは絶対に正しい、まちがいはないと、ただ盲目的に信じて自分では何も考えない。 御書や池田先生の指導をわきまえず、 教学を研鑽することも、学会の歴史を知ることも無関心になり、 日蓮大聖人の精神や池田先生の思想を護る志がない」 と言われたらどうでしょう。 当然、客と同じように、 「日蓮正宗が、大聖人の精神を失いかけたとき、牧口先生が命を懸けて守り、 それ以来、創価学会は三代に亘る会長を先頭に、日蓮仏法を全世界に興隆させたではないか。 多くの会館を全国に建立し、今や政権与党の政治家から万民にいたるまで、 日々、御本尊を拝し、勤行・題目を唱えている。 そして多くの本部職員が誕生し、池田先生の思想をまとめる仕事をして守っている。 御書や先生の指導を学ぶ伝統の教学試験も実施し、今日まで伝えている。 それなのに、日蓮大聖人の教えを破り、汚し、仏法僧の三宝を廃し、 学会に仏法がないとは、誰が言えるのか。 もし、その証拠があるなら、詳しくその理由を聞きたい」といって怒るのは当然です。 ちなみに『仏法僧の三宝』を簡単に説明すると、 仏宝とは「主師親の三徳をそなえられた仏」、 法宝とは「その仏の説いた教法」、 僧宝とは「伝持の人」ということです。 「三宝を廃す」とは、それが滅びるという意味です。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/16860 ここからは非常に大事なところなので、よりわかりやすく理解してもらうため、 私たちの学会組織に置き換えて考えていきたいと思います。 なぜなら、近い将来、学会から師子身中の虫が出ないとも限らないし、 事実において過去に公明党首脳陣からも、学会首脳陣からも反逆者を出した経験があるからです。 では始めます。 まず、現在の学会組織に仏法があるかないか。 この点で主人と客の見解が食い違っています。 客は、創価学会が誕生して以来、八十数年にわたって会員を倍増し、 初代・二代・三代・四代・五代・六代と会長が誕生し、日本全国はもとより、 世界各国に創価学会の会館を建立してきました。 今や日本の政権を握る政治家も含め、 あらゆる分野の指導階級から庶民までもが信仰に励んでいる。 それにも関わらず、どうして創価学会に仏法がないというのか――。 これに対して、 主人は、そのように万人が信仰をしているが、 御書や先生の指導とちがうことを言う幹部がいても、 誰も何も言わず、黙ってその幹部の言うことに従っている。 法に照らして、先生の指導に照らして、悪は悪と言いきる者がいない。 また、それを指摘すれば反逆者扱いにしてしまう風潮があるのに誰も何も言わない。 しかも責任ある幹部が愚かで、誰も責任を取ろうとしない。 無智で、世間知らずで、仏法の正邪を見分けることができないから、 ますますそのような保身の幹部がのさばり、ずる賢い幹部だけが栄えているのだ――と諭されています。 この「主人・客人」の考え方の根本的な違いは、客が形式主義にとらわれているのに対し、 主人は、実質を論じ、権威主義・形式主義を排して、仏法の正邪、高低、浅深という問題の核心にふれていることです。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/16861 日蓮大聖人の時代から今日にいたるまで、一貫して変わらないことは、 人々は宗教を論じるときに、あまりにも形式にとらわれ、宗教家と名がつく者、 学会であれば、幹部と名がつく者は皆、善知識だと決めてかかって、 宗教・思想の正邪、高低、浅深に、驚くほど無頓着なことです。 これが組織悪を許す根本原因なのです。 しかし、この権威主義、形式主義にとらわれ、実質を見失うのは、人間の弱点でもあります。 かつて、西洋でもキリスト教会の「宗教的ドグマ(教義)」「教会の権威」は、 未知の世界を知りたいという人間の自然の心の発露を、巨大な圧力で押しつぶし、 真実を叫ぶ偉大な知性をも葬り去り、思想の高低、浅深を論ずることを許さず、 権威と形式でしばりつけた悪夢の歴史があります。 日本においては、戦時中の神道思想への一国あげての傾注は、愚かしい狂気の沙汰でした。 初代・牧口先生は、正義の思想を守るために、その悪思想の巨大な圧力に殺されたのです。 神道思想の善悪、是非を論ずることを許さず、 権威と巨大な軍部の圧力が、民衆のうえに重くのしかかりました。 それらの底流を見るときに、権威主義、形式主義は、 民衆の生命の奥深くに根ざしていたのです。 既成の権威に閉ざされ、同調し、流されていく無気力と無智。 そして、自己保身に汲々となり、長いものには巻かれろ的な事なかれ主義。 それらの風潮が、政治面においては、民衆に君臨する巨大な独裁権力を生み、 宗教面においては、政治権力と利害で結びついた邪宗邪義を横行させ、それによって、 民衆の心は、根底よりむしばまれてしまうのです。 もし、自分の所属する幹部の不正を指摘したとき、 「創価学会をけなすとはとんでもない」といって、烈火のごとく怒りだすのは、その典型です。 自分の既存の知識、自分の既知(すでに知っている)の権威にしがみつき、 必死に抵抗しようとする姿は、哀れとしか言いようがありません。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/16862 主人は、こうした我慢偏執を捨て、思想の正邪、善悪を「法」によって検討することを教えられています。 しかし、現在の学会組織に仏法があるかないか、 その実質を論じてみれば、現場の意見も聞かず、まったく道理が通らず、 幹部の悪を指摘すれば反逆者扱い――。 それの一体、どこに仏法があるのか、どこに正義があるのか――。 それは明白ではないかと論じられているのです。 そして、 「但し法師は諂曲にして、人倫に迷惑し」(二一頁)――と。 これは組織に巣くう不正をした一般の幹部や、 中枢に巣くう一部の悪い首脳幹部の本性をえぐられた言葉です。 また、 「王臣は不覚にして、邪正を弁ずること無し」(同頁)――と。 これは、政治権力者に対して、真正面から切り込み、その愚迷を諫言された言葉です。 この一句のなかに、権威を恐れず、民衆のためを思い、会員のためを思い、 ただ一人決然と戦う広宣闘士の勇姿を見る思いがします。 また、もう一つ見逃してはならないことは、客の対話の姿勢です。 「もし、その証拠があるなら、詳しくその理由を聞きたい」(同頁)――と。 どんなに腹立たしく怒っていても、どこまでも平和的な対話で、 相手の主張に耳を傾けるという姿勢です。 これが権力をもつ側の指導者の真の姿です。 学会幹部が会員の声に耳を傾け、会員も組織まかせ、幹部まかせにせず、 主体者となって協力し、幹部・会員ともに広布の対話をしていくかぎり、 人間共和の麗しい異体同心の学会家族の和が、無限に広がっていくと確信します。 それが、池田先生の望まれる「学会は、永遠に人間学会で行く」ということだと思います。 ・・・・・・・明日に続く。 次へ ~1~へ
by taicyan0402e
| 2016-10-02 21:38
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