フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】~7~

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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】宿坊の掲示板より
投稿者:大仏のグリグリのとこ

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36843
池田先生は『新人間革命・灯台の章』で、日蓮仏法の偉大さと仏道修行の要諦についてこう語っています。

「日蓮大聖人の仏法は『直達正観』、すなわち『直ちに正観に達する』といって、即身成仏の教えです。
大聖人の御生命である御本尊を受持し、題目を唱えることによって、直ちに成仏へと至る、宇宙根源の法です。

深淵な生命哲理を裏付けとして、実践的には、極めて平易ななかに、
一生成仏への真髄が示された、合理的な、全人類救済のための、大法なのであります。

極端な話になるかもしれませんが、釈尊の仏法並びに天台の法門を、テレビに譬えて言うならば、
法華経以前の釈尊の仏法は、テレビを構成する一つ一つの部品といえます。

そして、テレビの組み立て方を示し、全体像を明らかにしたのが法華経です。
さらに、テレビがどんなものかを、理論的に体系づけたのが、天台の法門といえます。

それに対して、日蓮大聖人は、テレビ自体を残されたことになる。それが御本尊に当たります。

もったいない譬えですが、私どもが御本尊を持ったということは、
既に完成した立派なテレビを手に入れたことになります。

部品を組み立てたりしなくとも、理論はわからなくとも、すぐに見ることができる。
しかし、テレビを見るためには、スイッチを入れ、チャンネルを合わせなければならない。

それが、御本尊への信心であり、仏道修行です。具体的な実践で言えば、唱題と折伏です。
それによって、即座に希望の画像を楽しむことができる。これが『直達正観』の原理です」

(二〇一一年六月二十一日 聖教新聞)と明快に述べられています。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36844
さて、もう一つの「相待妙と絶待妙」についてですが、

大聖人は“一代聖教大意”のなかで

「この法華経(妙法蓮華経)には二つの妙がある。
天台も法華玄義のなかで『この経はただ二妙を論ず』とある。
一には相待妙、二には絶待妙である(通解)」(四〇三頁)と述べています。

“相待妙”というのは、伝教が法華秀句のなかで
「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(三一〇頁)

と語ったように、

釈尊の一代聖教は、浅い哲理より深い哲理へと順次に相対させて、
哲学上の価値判定を繰り返し、より求心的に最高究極の哲理を求めて、
一代聖教に説かれたそれぞれの教理の位置付けと役目を規定する重要な原理の一つです。

五重の相対はこの相待妙にあたります。

それに対して“絶待妙”は

「一代聖教は即、法華経であると開会する(通解)」(四〇三頁)と述べています。
その意味は、一代聖教は妙法の哲理をあらわそうとしたものにほかならないと知ってその立場から用いていくことです。

御書には「法華経には『治生の産業は皆実相と相違背せず』と宣べ」(一四六頁)とあります。

宇宙に存在する一切のもの、一切の現象は、一法として余すところなく妙法の影を明確に映し出す鏡であり、
妙法を根底とし、直結することによって、その影は影で終わることなく実体があるものとなります。

相待妙・絶待妙の二つ(二妙)は、どちらか一方だけが真実なのではなく、
相待妙をふまえた上での絶待妙であり、絶待妙という哲理に至らなければ相待妙も意味がないのです。

こうした法華経思想の根底に一貫して流れる基本的な考え方が「相待妙・絶待妙」の哲理です。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36845
この哲理を理解した上で「五重の相対」を見ていけば、相対論で否定された諸経(権・迹・脱益)といえども、
真実(根源の法・南無妙法蓮華経)を説き示すために設けた方便であって、その本質は真実への道を指し示しているのです。

つまり、絶待妙の立場から爾前の諸経を見れば、諸経は「根源の妙法」を機能的に応用展開したもので方便即真実となります。

天台も法華玄義のなかで

「皆、本仏の因果の理法(根源の法・南無妙法蓮華経)を随縁的・機能的に応用展開し、
五時八教(天台の教相判釈)を用いて、種々の衆生のために法を説き仏事をなしていったのである」

と述べていますが、これは絶待妙を解明したものです。

以上、「依義判文・依文判義」と「相待妙・絶待妙」の二つを通して、
大聖人の考え方の発想の基盤を解明し、大聖人の第三の法門「種脱相対」を見てきました。

一度整理します。

種脱相対は釈迦仏法と日蓮仏法の相対のことをいい、末法で説く「本門」とは、
釈尊の説いた法華経本門ではなく、大聖人が初めて説いた「文底独一本門」のことを指します。

“事の一念三千(三大秘法義)”とは、発迹顕本した日蓮大聖人の生命(魂)を
そのまま一幅の漫荼羅として書き顕したのが「本門(人法一箇)の本尊」であり、これが大聖人の出世の本懐です。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36846
日寛は六巻抄(文底秘沈抄)で大聖人の出世の本懐を、
万人が理解しやすいように御書・経文を通して分かり易く整理してまとめています。

それを簡単に説明すると、まず方便品の
「諸仏世尊は、ただ“一大事”の因縁をもってのゆえに世に出現したまう」(妙法蓮華経一二〇頁)

の文を引いて「一大事」の言葉が、すでに三大秘法を意味しているとして

「一は本門の本尊(一閻浮提第一の故)、大は本門の戒壇(受持即持戒の故)、事は本門の題目(事を事に行ずるが故)」と述べています。

次ぎに御書(法華取要抄)の「問うて云く如来滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の
残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(三三六頁)

の文を引いて
「此れは是れ文底秘沈の大事・正像未弘の秘法・蓮祖出世の本懐・末法下種の正体」として、

一大秘法を「本門の本尊」、それを開いて三大秘法の「本門の本尊・戒壇・題目」になると解説し、

それをさらに詳しく説明するために「本尊(人・法)、戒壇(事・義)、題目(信・行)」と六大秘法に立て分けて整理しました。

この日寛の解説はじつに簡潔で、非常に鋭い視点で御書・経文を精査してると思う。

それでいて誰もが納得できる論理展開です。

御書全編を精読すれば、一大秘法・六大秘法という言葉が文中に無くても、その“義”は厳然とあります。
たとえば、開目抄(人本尊開顕)・観心本尊抄(法本尊開顕)などは、その最たるものです。

人法一箇の当体――それが日蓮大聖人であり、御本尊です。

末法今時は、その御本尊(本門の本尊)を安置し、大聖人の御書を根本として、
御本尊に向かって唱題している自分自身とその場所自体が「本門の戒壇」になり、
その本門の本尊を信じて自行化他の題目が「本門の題目」となります。

要するに、三大秘法といっても一大秘法(本門の本尊)があって、
初めて本門の戒壇・本門の題目という「三大秘法の義」が成立するのです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36847
むずかしい表現になりますが、本門(人法一箇)の本尊とは、

法のうえからいえば「事の一念三千即南無妙法蓮華経の本尊」であり、
人のうえからいえば「久遠元初の自受用報身即末法御本仏日蓮大聖人」です。

宇宙根源の法である「三大秘法の南無妙法蓮華経を信じる」といっても、それは「理」であって「事」ではありません。

事を事たらしめるのが日蓮仏法なのですから、日蓮大聖人を離れて三大秘法はなく、御本尊を離れて三大秘法もないのです。

牧口先生や戸田先生と親交の深かった大石寺・日淳は大聖人の“教”についてこう説明しています。

(※読みやすいようにしました)

「世間では大聖人の“教”は題目にあると思って題目を主として御本尊をいいかげんにする者が多いのであります
・・・多いどころではなく皆そのように考えておりますが、これがために大聖人の“教”をはき違えるのであります。

元来このような考えは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考えるからでありまして、
宇宙に遍満する妙法の“理”が題目であるとするからであります。

これは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。
すなわち“法・報・応”三身具足の当体であらせられ“報身”の中に具したまうのであります。

妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。
実際には仏の御智慧のうちにのみ、厳然として具わりたまうのであります」(日淳全集九八二頁)

と明快に述べています。

つまり、根源の法である南無妙法蓮華経(本尊)は
大聖人の「事(発迹顕本)」を離れてはない、あるとすればそれは「理」であるということです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36848
結論していえば「観心の本尊」とは、大聖人が竜口で発迹顕本し、
わが胸中(報身)に久遠元初の“主師親の三徳”が顕れたご境涯をいうのです。

この報身を離れた妙法を以って御本尊というならば、身延の本尊や仏像本尊と同じです。

もし、自分の己心に御本尊があるから本尊なんてなくてもよい、という輩がいたならば、
自分を鏡に映して自身に向かって拝めばよい。

ただし、そういう輩は「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(九一九頁)との警告をよくよく思索するべきです。

そうではなく、大聖人のご境涯を「観心の本尊」として拝し、その鏡に向かって自身を照らし、
題目をあげて御本尊と「境智冥合(自身の発迹顕本)」していくなかに、三徳の智慧が具わり即身成仏も叶うのです。

これが日蓮仏法を信奉する信仰者の基本姿勢です。

以上、五重の相対を通して日蓮大聖人の仏法が如何なる教義なのかを研鑽してきました。

今年(二〇一六年)一月二日、池田先生は八十八歳の米寿を迎えられました。

今この時に当たって、弟子が師匠に甘えるのではなく、
今こそ学会員一人ひとりが、もう一度原点にもどって日蓮教学を研鑽し理解に努め、
さらにその教義を体得して一切を見、師匠に代わって広宣流布の総仕上げをしていこうと決意する時ではないかと思います。

その自覚に立って今回(二〇一五年版)の創価学会会則変更(教義)を見ていけば、会則変更の何が間違っているかは明らかです。

この問題については「第二章」で言及していきたいと思います。

さて、次ぎの第二章では

“五重の相対”を応用して、大聖人滅後から現在までの「相対」を検証していきたいと思います。


第一章 五重の相対   ― 完 ―


※【第二章 相対論の応用展開】執筆中 スコシノアイダ マッテネ♪


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by taicyan0402e | 2016-09-14 11:13 | 宿坊の掲示板より(教義的) | Comments(0)
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