フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】~6~

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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】宿坊の掲示板より
投稿者:大仏のグリグリのとこ

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36799
しかし、釈尊が自らの限界を自覚できるということは、その限界を超えるものを知ってはじめて可能になります。

自らの限界を自覚していること自体が“釈迦仏法の有限性”を示し、
自らを超える究極の「偉大な法」があることを指し示しているのです。

上記の御文にもあるように、大聖人は第一(権実)第二(本迹)の法門より、
今一重立ち入って第三(種脱)の相対を独自に立てられ、これを「日蓮の法門」としました。

その文証が上記、開目抄の御文であり、

観心本尊抄では
「在世の本門と末法の始は一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり」(二四九頁)、

御義口伝では
「此の品(寿量品)は在世の脱益なり。題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益、滅後は下種なり。
よって下種を以て末法の詮と為す云云」

となります。

開目抄の「ただ天台大師のみがこれを内心に悟っていた(通解)」(一八九頁)とは、

天台大師は第三の法門である“種脱相対”を内心では知っていたけれども、時と機がなく付嘱もないゆえに、
自行として南無妙法蓮華経は唱えはしても、化他としては妙法の名字をかえて「止観」と名づけ
「一念三千の法」の理論を説いただけに留まったという意味です。

大聖人は“第三の法門”が末法に弘通する大白法であるとの大確信を表明して

「種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり」(二三二頁)と断言しました。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36800
しかし「時」の重要性を示した“撰時抄”を読んでいると、ある疑問に突き当たります。

その疑問とは、撰時抄に

「仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教の
いまだ弘通しましまさぬ“最大の深密の正法”経文の面に現前なり」(二七二頁)とあります。

これは仏の滅後において、末法にいたる二千余年の間にさまざまな仏法流布の指導者が数多く輩出されたが、
彼らがいまだ弘通していない最大の深密の正法(三大秘法)が経文上に現前と説かれているという意味ですが、

開目抄には「一念三千は文底秘沈」と語っているのに、撰時抄では「三大秘法は文上に現前」と説いています。

“一念三千”と“三大秘法”は同一の法体を示したものですが、

なぜ、一方では「文底」といい、他方では「文上」といわれたのでしょうか。

さらに別の御書を読んでも同じ疑問が浮かんできます。

たとえば
「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(一五四六頁)
と述べられており、妙法以外の一切を否定しています。

ところが、撰時抄の上記の文は法華経を肯定して用いる立場を表明している。
一方では否定し、他方では肯定するという二つの相反する考え方が、なぜ御書のなかで示されているのでしょうか。

大聖人の思想を正確に理解するうえで、この部分の解明は避けては通れない問題だと思う。

なぜなら、池田先生が亡くなったあと、退転者や反逆者、また二流三流の評論家や学者たちが

「日蓮の御書や池田名誉会長の指導には二つの相反する考え方があり、
自語相違も甚だしく哲学的に見ても一貫性がない。そんなものを信じているから不幸になるんだ」と、

一つひとつ自語相違の文証を出されて日蓮仏法も池田思想も完全否定されたら、皆さんならどう応戦しますか――。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36801
ここからは少しむずかしい言い方(表現)になるかも知れませんが、
この問題を解明するために、しっかり研鑽し思索していきましょう。

それでは始めます。

大聖人の思想を正確に理解していくうえで大事なことは二つあります。

一つは「依義判文と依文判義」、もう一つは「相待妙と絶待妙」です。

まず、依義判文とは“義に依って文を判ずる”と読み、義によって文を解釈するという意味です。
それに対して、依文判義とは“文に依って義を判ずる”と読み、経文に説かれている文により、
仏の説いた真実の義を解釈するという意味です。

「義」は文によってあらわされる思想であり法理です。「文」は説かれた経文のことです。

これらを一般的に見た場合、
普通は“文と義”の関係は、文章(経文)によってその思想や法理があらわれるものです。

だから解釈する側にしてみれば、思想や法理は文章(経文)によって得られるのであり、
思想や法理によって文章(経文)を解釈するということは不可能なはずです。

しかし、よく考えてみると、人間はある文章(経文)に遭遇した場合、
それ以前にさまざまな人生経験や学問によって「義(思想・法理)」の会得に通じる概念をもっています。

だから自分が会得した「義」によって、その文章(経文)が何を意味しているかについては“考える”ことができるのです。

つまり、自分が会得した義によって文章(経文)を解釈するということを日常的に実践しているわけです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36802
大聖人は

「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。
爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」
(一二七四頁)と述べています。

この御文は天台の著した十章からなる“摩訶止観”の
正しいとらえ方を示した大聖人の著作“十章抄”の文なのですが、

この御文の意味は、

確かに天台大師は「一念三千の法門」を法華経方便品(迹門)の十如実相から導き出して立てたが、
その一念三千の義(思想・法理)は本門によっていると述べます。

そこから大聖人は、
爾前経の経文はより次元の高い法華経迹門の義(思想・法理)によって解釈し(依義判文)、
法華経迹門の経文はそれよりさらに次元の高い法華経本門の義(思想・法理)によって解釈しなければならない(依義判文)

と訴え、

経文自体がそのまま義(思想・法理)をあらわしているのは本門だけ(依文判義)であると結論しました。

そしてその本門寿量品(文上の義)を、大聖人はさらに一重深く立ち入り、
文底に秘沈されている「文底の義(事の一念三千)」を拾い出し、

末法の衆生のために “人法一箇の南無妙法蓮華経”である「本尊」を顕します。

大聖人がなぜ

「経文に明ならんを用いよ。文証無からんをば捨てよとなり」(四八二頁)といわれて
経文上の明確な根拠のある教義を用いるべきであり、経典によらない教えは用いてはならないと戒めたり

「文無く義無きは信受すべからず」(二一九頁)と天台の言葉を引いて
経典(文)も道理である義(思想・法理)もない教義を信じてはならない、と厳しく戒めるのかというと、

そもそも大聖人の“事の一念三千”の義によって法華経の文を解釈するといっても、
この“事の一念三千”の義は、法華経の文を超えたところ、すなわち「文底」に秘沈されているものです。

しかし、だからといってこの「文底の義」は法華経の文を離れたところにあるのではありません。

要するに、大聖人の“事の一念三千(三大秘法義)”は、大聖人が勝手に造ったものではなく、
釈尊も知り、ひいては三世の諸仏も天台も伝教も知っていたのです。

ただ、私たち凡夫が簡単に見透すことができないだけで、大聖人からすれば

本門寿量品の“文上の義”によって“文”を解釈するとともに、
その“文”のなかに“文底の義”があることを明らかにすることができるのです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36803
ではなぜ、大聖人は「文上の義」によって「文底の義」を拾い出すことができたのでしょうか。

今度はそれを考えてみましょう。

まず結論からいうと“文上の義”から“文底の義”を拾い出した理由は、

大聖人が法華経を理論上で解釈しただけでなく、法華経をわが身で体験(身読)し、
人生最大の法難である竜口・頸の座で発迹顕本したからです。

釈尊(文上の義)の発迹顕本は、久遠とはいえ「五百塵点劫」の成道が一切の根本であり、それが釈尊の本地です。

これに対して、大聖人(文底の義)の発迹顕本は、

五百塵点劫よりもっと前の「久遠元初」が一切の根本で、これが大聖人の真の本地であり、
その身そのままの姿で、久遠元初(根源の法)を体現したのです。

いわゆる「直達正観(即身成仏)」といわれるものです。

釈尊を仏たらしめた「根源の法」が久遠元初の南無妙法蓮華経であると覚知し、
大聖人の身に涌現(一体)して、一人の人格者として顕れた――。

久遠元初の「主師親の三徳」を体得し、その境涯で文上の義を見れば、
その文底には厳然と“三大秘法の義”があると見たのです。

大聖人は“直達正観”した事の一念三千たる南無妙法蓮華経を
末法の衆生を救済するための「本尊」として図顕し

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。
当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(一三三九頁)と師子吼しました。

よって末法の衆生は、その御本尊を受持し自行化他の唱題行に励むだけで「即身成仏」できる、

というのが日蓮教学の結論なのです。


・・・つづく

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by taicyan0402e | 2016-09-13 09:44 | 宿坊の掲示板より(教義的) | Comments(0)
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