フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】~5~

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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】宿坊の掲示板より
投稿者:大仏のグリグリのとこ


http://6027.teacup.com/situation/bbs/36762
次ぎの第五の相対が「種脱相対」です。

種脱相対とは、法華経本門には二つの“義”があり
「釈尊の本門(脱益仏法)文上」と「大聖人の本門(下種仏法)文底」の相対です。

なぜ釈尊の仏法が“脱益仏法”なのかというと、
まず釈尊は寿量品において「釈尊と衆生」の関係性を明らかにします。

釈尊の弟子たちは、師匠である釈尊が成道(発迹顕本)したのは、王位を捨てて出家し、
そこから菩薩の修行をしたのち、菩提樹の下で成道したと思っていました。

しかし釈尊はそうではなく
「実は久遠という過去世の遠い昔に私(釈尊)はすでに菩薩の修行を終え、発迹顕本して衆生に下種してきた。
それ以来、この娑婆世界で何回も何回も下種した衆生を私(釈尊)と同じように発迹顕本させ、
その功徳(境涯)を得させるために説法教化してきたのだ」と明かしたのです。

これが釈尊の法華経であり釈尊の出世の本懐です。

だから衆生側は、すでに下種されているのだから釈尊の振る舞いを通して学び、
釈尊と同じように発迹顕本すれば仏の境涯を得、人生を楽しく生きていけるのです。

仏が衆生に初めて法を教えることを「下種」といいます。
そして、仏の教化によって次第に衆生の機根が整うのを「熟」といい、最後に発迹顕本(成仏)することを「脱」といいます。

要するに、釈尊の仏法は釈尊が過去に下種し、何回も説法教化することによって
衆生の機根が成熟し最後に成仏させるための脱益の教えということです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36763
これに対して、末法に生まれてくる衆生は過去に下種を受けたことがなく、成仏のための善根を持っていません。

簡単にいえば、釈尊と縁がない(眷属ではない)のです。
このことを知っていた釈尊は「地涌の菩薩」に末法の衆生救済を託します。

釈尊は遠い未来を洞察し、自身(釈尊)亡きあと、教法が弘まっていく道程を五つ(五箇の五百歳)に立て分け、
末法の衆生が登場する時代様相は、第五番目の「闘諍堅固・白法隠没」になった時だと述べます。

その特徴は、常に争いごとが絶えず人心も濁っていて、親が子を殺し、子が親を殺すという、
とんでもない人間が生まれてくる時代で、仏法があるといっても「全民衆を救済する」という仏法本来の精神が完全に廃れているのが末法です。

だから末法の衆生は脱益仏法では成仏できず、最初に下種をするところから始めなければならないのです。

これが大聖人の仏法が下種仏法といわれる所以です。

しかし、釈尊を仏にした「根源の法」といっても具体的に何を下種するのでしょう――。

そもそも法華経本門で、釈尊の久遠の発迹顕本(成道)が説かれたといっても、
それは結果の姿にすぎないばかりか、成仏の本因の法(根源の法)が明かされたわけではありません。

つまり釈尊自身が修行して成仏した「根源の法」が何であったのかについては、釈尊は何も明かしませんでした。

それを法華経本門寿量品から拾い出し、宇宙と生命に内在する「根源の法」をわが身に涌現し、

人類史上初めてその「法と人」が一体となって、その人格にあらわれ振る舞われた人間――それが発迹顕本の日蓮大聖人なのです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36764
大聖人は釈尊が修行した根源の法が「事の一念三千(三大秘法の南無妙法蓮華経)」であると明かされます。

大聖人のいう「事」とは“法と人”つまり“法体”そのものが「事」ということです。

御書には「自受用身とは一念三千なり・・・・一念三千即自受用身」(七五九頁)とあります。

この御文の意味は、根源の法を用いる身(自受用身)、これが大聖人の報身(心)にあらわれた、
何によってあらわれたのか――それは「久遠元初の発迹顕本」によってです。

“久遠元初の自受用報身(日蓮)”即“一念三千(法)”との表現は、
法と人は決して別々のものではなく、一体のもの不二のものということです。

大聖人は悪世末法の衆生を救済するために、まず、わが身に根源の法を涌現(発迹顕本)させ、
万人にその方途を示して、その明鏡を「人法一箇の本尊」として図顕し末法の衆生に残しました。

つまり、大聖人と南無妙法蓮華経の“人法”は、一体であり不二の関係である、
その大聖人の魂を「本尊」として図顕し、幸福の因果の法を万人に授与するということです。

これが大聖人の「事の一念三千」の法門です。

五重の相対のなかで、ここはもっとも大事なところなので、じっくり考えていきたいと思います。

大聖人は開目抄で

「この法華経の大事たる一念三千の法門は、ただ法華経の本門・寿量品の“文の底に沈め”られている。
竜樹・天親は知ってはいたがそれを拾い出していない。ただ天台大師のみがこれを内心に悟っていた(通解)」(一八九頁)と述べています。

これは法華経の大事たる一念三千の法門(根源の法)を明かされたのは、
後半十四品(本門)寿量品の“文の底”に明かされているという意味ですが、

ここで疑問に思うのは、方便品の十如実相で一念三千を明かし、
寿量品の三妙合論と久遠実成で、完全に一念三千を説き明かしているのに、
どうして寿量品の文上ではなく“文の底”つまり文底にあると表現したのでしょうか。

ちなみにこれを「文底秘沈」というのですが、大聖人の教義と諸宗の教義の最大の違いは、この種脱相対(文上・文底)にあります。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/36765
富木常忍に宛てた手紙のなかで、大聖人は

「心得ておきなさい。法華経と爾前経と相対して判別するのに
“当分と跨節(一重立ち入る)”の立てわけ方に三つの仕方がある。

日蓮の法門は第三の法門である。
世間においては、あらあら夢のように第一、第二については述べているけれども、第三の法門については述べていない。
第三の法門は天台・妙楽・伝教もあらあらこれを説き示しているけれども、いまだに説ききっていない。

結局、末法の今に譲り与えたのである」(九八一頁)と述べています。

日寛は六巻抄で上記御文を引用し、

第一の法門は権実相対で「但法華経」。
第二の法門は本迹相対で「本門寿量品」。
第三の法門は種脱相対で「文底秘沈」、と立て分けて解説し

「是れは種脱相対にして第三の法門なり。此れ即ち宗祖出世の本懐なり。ゆえに日蓮が法門と云うなり。
今一念三千の法門は但文底秘沈と云う意ここにあり。学者深く思え云々」(三重秘伝抄)と述べました。

釈尊は法華経を説くなかで自分の限界をいたるところで明言しています。

それは釈尊の仏法では救済できない“末法”のことを考慮して、
その時のために地涌の菩薩に「根源の法」を託した儀式を見ても明らかです。

実際、釈尊も寿量品のなかで
「我れは本(も)と菩薩の道を行じて」(本因妙)、「我成仏してより已来」(本果妙)とは表明していますが、
釈尊が“いずれの法”を根本として菩薩行を成し、仏になったのかは明らかにしませんでした。

これらは釈尊の教えである法華経も、それ自体が仏法の究極ではなく、
最高の教えに至る一歩手前で踏みとどまった経典であることを物語っています。


・・・つづく

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by taicyan0402e | 2016-09-12 08:54 | 宿坊の掲示板より(教義的) | Comments(0)
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