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~2~の続き 【五義の教を知る 第一章 五重の相対】宿坊の掲示板より 投稿者:大仏のグリグリのとこ http://6027.teacup.com/situation/bbs/36668 次ぎの第三の相対が「権実相対」です。 人間の幸福の「因果の涌現」を目指す大乗教にも二種類あります。 それが“権大乗教(権経)”と“実大乗教(実経)”の相対です。 “実教”とは真実の教えという意味で「法華経」を指します。 “権教”は権(かり)の教えという意味で「法華経以外」の教えです。 実教である法華経は、人間の生命自体に幸福の根本原因である仏果(仏界)が本来的に具わっていると明かし、 二乗や悪人、女性も含めてすべての人々が平等に成仏できるという仏の真実の悟りを説き明かし、その根拠となる法門を示しています。 これに対して、権教は自分の“悟りのみ”を追求する二乗を嫌い、悪人・女性などは成仏できないと説いています。 「万人の幸福こそ仏の真意」という法華経からすれば、権経は人々の機根に合わせた方便の教えであり、権(かり)の教えにすぎません。 大聖人の結論は「但し法華経計り教主釈尊の正言なり」です。 万人の幸福――これを可能にする法理を説いた法華経こそが釈尊の真実の教えなのです。 インドで生まれた釈尊の仏教が、まったく異質の文明を持つ中国や日本へ伝えられると、それぞれ国によって独自の発展を遂げていきます。 そして、この権実相対の戦いを展開したのが、中国に出現した天台大師と日本の伝教大師です。 竜樹がインドにおいて小乗経典・大乗経典をきちんと整理し体系化したように、 天台は中国において別の角度から仏教を整理し、伝教はそれを日本において実践に移しました。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36669 繰り返しになりますが、 インドでは釈尊滅後、初期教団の経典結集から始まり、アビダルマ研究による小乗論集、 そして大乗仏教の興起へと、教義的にも順を追って深まり発展していった歴史があります。 一方、中国では経典伝播の過程で、経典成立の先後や高低にまったく関係なく大乗も小乗も別々に、 しかも時には順序も逆になって仏教が伝わってきた歴史的経緯がありました。 ここに中国仏教界における混乱の一因があったと思うのです。 そういうなかで西域地方から来た「鳩摩羅什」の登場によって、釈尊一代の説法のなかにも それぞれ教相の“先後・浅深・高低・優劣”があることを教えられた中国の仏教界は、 いよいよ第二期(第一期、竜樹)の学派時代に入っていったのです。 南三北七といって南方と北方に各学派が成立しそれぞれが自派の「教相判釈」を競っていた時代です。 それぞれの学派が膨大な仏典のなかで、釈尊の根本精神はどこにあるのかを真剣に研究していました。 この頃はまだ、一宗一派に固定していない状態ですから、 南北の交流もあり優秀な学僧は優れた師を求めて各地を修行して歩いていました。 そこに南岳大師や天台大師が出現する基盤や、どこまでも真実を求めていこうとする精神の自由があったと考えられます。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36670 南三北七の諸家が釈尊一代の説法のうち、何が最高のものであるかに迷っていたときに、天台大師が登場します。 南岳大師に師事していた天台は「法華経」が最も第一の経典であることを生涯説き続けました。 南三北七の諸家の教判では、華厳経や涅槃経が上位におかれていて法華経は第三の位置に落とされていました。 それに対して、天台はまったく新たな教判(五時八教)をもって、法華経こそが第一であると主張します。 天台は仏説にまかせて法華経が最高第一であることを知らしめるために、 南北の全仏教者を向こうにまわして獅子奮迅の戦いを展開しなければなりませんでした。 おそらくこの主張は、孤立無援の懸命な戦いであったと容易に想像がつきます。 天台の教判は膨大な仏典の密林に分け入る方法論であり、羅針盤であったといえるでしょう。 しかし、天台は教判のみにとどまっていたのではなく、彼がもっとも力を入れたのは、 後世“天台の三大部”として知られる法華経を中心とした理論体系の構築にあったのです。 後に「法華玄義・法華文句・摩訶止観」である三大部を筆録した弟子の章安大師は、 もともとは天台の涅槃経講義を聴聞したいために、天台の門に入ったといわれています。 その彼が涅槃経よりも法華経のほうが勝っていることを知った一事をみても、天台の与えた影響力の大きさがうかがえます。 天台大師は像法時代において「権実相対」の戦いを展開し、 “鳩摩羅什”以後の中国仏教界をさらに大きく変革していった人物といえるでしょう。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36671 像法時代の後半に入り、六世紀から七世紀の前半にかけて、 日本では飛鳥寺・四天王寺・法隆寺などの壮大な寺院が次々と建てられ、 その内部にはさまざまな仏像や工芸品、絵画が置かれます。 それを初めて見た人々は自然と畏敬の念を感じたことでしょう。 仏教の知識がなくても、それらの迫力、美しさに圧倒されたにちがいありません。 そして像法時代の後半、八百年(釈尊滅後千八百年)が過ぎた頃に伝教大師が登場します。 彼は奈良東大寺で出家し、まもなく比叡山に入って法華経を根本とする天台の教えを信奉するようになります。 後に中国へ渡り、天台の弟子にあたる道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)から天台教学を学び帰国後、日本天台宗を開きました。 この頃の日本では中国と同じく、仏教が何派にも分裂していて、 伝教は諸宗と論争し、法華一乗を宣揚していきます。 そして晩年、彼は法華経・迹門に基づく“大乗戒壇”を建立して生涯を終えました。 こうして日本に仏教が根を下ろし、大聖人の在世には 「寺が一万一千三十七箇所、社は三千一百三十二社」(一〇六六頁)と多くの寺院が建立されていたのです。 これらの事例から仏教の“三時”である像法時代(千年)に中国・日本で「権実相対」の実践が成されたことになります。 ・・・つづく 次へ ~1~へ
by taicyan0402e
| 2016-09-08 20:20
| 宿坊の掲示板より(教義的)
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