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【五義の教を知る 第一章 五重の相対】宿坊の掲示板より
投稿者:大仏のグリグリのとこ http://6027.teacup.com/situation/bbs/36567 日蓮大聖人の教相判釈で、後に「五重の相対」と呼ばれる法理がありますが、 これは“人本尊開顕の書”である開目抄の前半で詳細に述べられています。 この相対論の思想は仏教の伝統的思想で、大聖人は伝教の著作・法華秀句の 「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(三一〇頁)の文を引き、 一代聖教を浅い哲理より深い哲理へと順次に相対させて、思想上の価値判定を繰り返し、 より求心的に最高究極の哲理を求め、何が釈尊の真実なのかを洞察していきました。 五重の相対とは“五義(教・機・時・国・教法流布の先後)”の「教」を知るための規範であり、 その教えの高低・浅深・優劣を決定する教判 (宗教批判の原理)の一つです。 大聖人は開目抄のなかでこの五重の相対を用いて 「一念三千の法門(三大秘法の南無妙法蓮華経)」こそが末法の衆生を救済する最高の教えであると明かされました。 大石寺・日寛も六巻抄(三重秘伝抄)のなかで“五重の相対”のうち「権実・本迹・種脱」相対の“三重”は、 日興門流のみに伝わる秘伝であると称して詳細に検証しています。 三重秘伝とは一念三千の法門が三重の段階で明らかにされることを示したものです。 そして末法に弘められる「教」は文底秘沈の“事の一念三千”であることを論証しました。 この日寛の出現によって後世の弟子「牧口先生・戸田先生」は、五(五老僧)・一(日興)を相対して 日興門流富士大石寺を選び取り、大聖人の命脈を継承していくのですが、これは後に述べていきたいと思います。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36568 唱法華題目抄には「法門をもて邪正をただすべし」(一六頁)との記述がありますが、 これは仏法の正邪の裁定には、法門上の根拠が必要不可欠なのだという意味です。 戸田先生は宗教批判の基準について 「日本の現在は種々の宗教があるが、これを批判する基準を知らない。 ことに知識階級ぐらいは、これを知っておってよいはずだが、宗教教育のないために、 啞法の尊者のようであるのは遺憾というよりほかない。 しからば、宗教批判の原理はなにか。 五重の相対と、文証・理証・現証の三証と、教・機・時・国・教法流布の先後(五義)とについて考察しなくてはならない」 (戸田城聖全集三巻一三〇頁)と述べています。 そして池田先生は小説「新・人間革命(厳護)二十四巻」で、教学の重要性についてこう述べています。 「仏法を学び、教学の研鑽を重ねることは、人生の意味を掘り下げ、豊饒(ほうじょう)なる精神の宝庫の扉を開く作業といってよい。 ・・・第二代会長・戸田城聖も、こう訴えている。 『信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ』『教学により信心が強くなり、高まるから功徳がでる』と。 大聖人は『心の師とはなるとも心を師とせざれ』との経文を引かれて、仏法者の在り方を指導されている。 その『心の師』となるべき、仏法の法理を学ぶのが教学である。 ・・・創価学会の人間革命運動を推進していくには、教学が不可欠であるというのが、伸一の思索に思索を重ねた結論であったのである。 戦後の創価学会再建にあたって、戸田城聖が全精魂を注いできたのは、教学を一人ひとりの生命に打ち込むことであった」と。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36569 さらに日寛は六巻抄で「明者はその理を尊び、闇者はその文を守る」(依義判文抄)と述べています。 文は理をあらわすための手段であるから、賢明な者はその文が何をいわんとしているのか、 その奥底の思想・哲理・本質というものをよく読み取って尊ぶ。 それに対して愚迷な者は文言にのみ執着し、その文が説かんとしている思想を究めることができないという意味です。 それでは、仏教の伝統的思想である相対論「五重の相対」を考えていきたいと思います。 竜口で発迹顕本された大聖人は流罪地である極寒の佐渡に到着した直後(十一月)、すぐに開目抄の構想を練られるわけですが、 佐渡地での環境は劣悪で、大聖人の住居であった塚原三昧堂は墓所の「死人を捨つる所」(九一六頁)にある一間四面の狭い堂で、 祭るべき仏もなく、板間は合わず、壁は荒れ放題で廃屋(はいおく)同然の建物でした。 そうした環境のなかで大聖人は思索を深められ、構想も含めて約三ヶ月で人類を救う大著・開目抄が綴られ完成させました。 普通の人間がもしそういう環境に置かれたら“人類の救済云々”などとは考えないし、考える余裕すらないと思います。 冷たい風が容赦なく吹き抜け、雪が降り積もるなかで、敷皮を敷き、蓑を着て昼夜を過ごし、 慣れない北国の寒さに加え、食料も乏しい――。 古来、大難を耐え忍んだ人はいたとしても、大聖人の偉大さは、その大難のなかで自分自身のことよりも、 民衆救済の指南書ともいえる“開目抄”や“観心本尊抄”を書き残し、弟子たちに楔を打たれたことだと思います。 御振舞抄に「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり」(九一九頁)とありますが、 この“日蓮の不思議”とは発迹顕本のことだと思われます。 大聖人が発迹顕本(主師親の三徳を開く)したことによって、万人に仏界の生命を開く道が示されました。 つまり「一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」(五六四頁)と述べられたように、 大聖人の発迹顕本は末代のあらゆる凡夫に通じる成仏の「根本原理」を示されているのです。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36570 その開目抄の冒頭で、大聖人は全人類が尊敬すべきものとして 「主師親の三徳」がテーマとして示され、中国の思想(儒教・道教)、インドの外道、 内道の仏教の三つにそれぞれ多くの人々から“主師親”として尊敬されている存在を挙げられます。 そして、それぞれの宗教がいかなる「法」で、どのような「生き方」を教えているのかを問い “主師親”を基軸にして「生命の因果」という根本的な視点に立って検証していきました。 五重の相対という法理は、人間の幸・不幸という「生命の因果」を それぞれの思想・宗教がどのように説いているかという観点から判別したものです。 つまり、その「教え」が人間の幸・不幸の「原因と結果」をどれだけ深く根底まで掘り下げ、 これをどう見極めるかによって、思想・宗教の高低浅深を問うものです。 御書には「譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし」(九二一頁)とあります。 医者が病気を治そうとする時には、その病気の原因をよく見極めて治療しなければ、かえって病気を悪化させることがあります。 それと同様に、苦難や不幸を解決するためには、その根本原因を見極めて解決に当たらなければ不幸を助長しかねません。 不幸の原因とその結果を明確にすることは、宗教・思想にとってもっとも肝要なことです。 つまり、その宗教(教えの根本)が説く「生命の因果」の深さは、その宗教が前提とする「悟りの法門」の深さに関係しているのです。 大聖人は開目抄のなかで諸宗教・思想の「生命の因果」の立て方に種々の違いがあることを述べられ、 その高低浅低を“五重の相対”によって示されていきます。 その過程で「成仏の因果」、つまり人々を救う要法として“事の一念三千”の法門を明かされていきました。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36571 その第一の相対が「内外相対」です。 これは内道である仏教と仏教以外の諸教との相対です。 仏教がなぜ“内道”なのかというと、仏教は自身の幸・不幸の原因が自身の内にあり、 自身が自らの運命の決定権をにぎる主体者であることを明かしているからです。 これに対して“外道”といわれる諸宗教のなかには、 自身の幸・不幸に関する因果の法則を認めていないものがあります。 大聖人は 「儒教等の中国諸教の賢人・聖人たちが、 さまざまな形で巧みにその理解を立ててはいるが、まだ過去世・未来世については何も知らない。 ただ現世のことだけを知っているにすぎない。 孔子が『中国に賢人・聖人はいない。西の方に仏図(仏陀)という者があり、その人が真の聖人である』といって、 外典である儒教を仏法へ入る門とした。 儒教は礼儀や音楽などを教えて、あとに仏教が伝来した時、戒・定・慧の三学を理解しやすくするために、 王と臣下の区別を教え、尊卑を示し、 父母を尊ぶべきことを教え、孝行の道を尽くす大切さを教え、 師匠と弟子の立場を明かし、師に帰依することの重要性を教えたのである(趣意)」(一八六頁)と、 儒教の本質を語り、 「インドの外道で説かれた教えは、その見解が深く巧みなさまは儒教の遠く及ぶところではない。 しかし、その所説の法門の極理は、 あるいは『因の中に果がある』という決定論、 あるいは『因の中に果はない』という偶然論、 あるいは『因の中にまたは果があり、または果がない』という折衷論などである。 これらが外道の究極の理論である。 それら外道の修行では、生死の苦悩から開放されることはできない。 結局、外道というものは仏教に入るための教えであり、それが外道がもつ最重要の意義なのです(趣意)」(一八七頁) と、外道の本質を明らかにしました。 http://6027.teacup.com/situation/bbs/36572 この外道に相対して、内道である仏教は 自身に起こってくるすべての出来事を自己責任で捉える“自業自得”という思想です。 つまり、自らの善悪の行いに対する苦楽の結果を自らが得るという意味です。 仏教がなぜこのような厳しき因果の理法を自分の問題として捉えることができる思想なのかというと、 人間の生命の内に“仏性”という偉大な変革の可能性と力が本来的に備わっているという真実を知っているからです。 自分の意志と行動によって自身の運命を切り開くことができるという主体性と責任に目覚めさせていくのが仏教(内道)なのです。 この内外相対の戦いを展開したのが仏教の祖師である釈尊です。 大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(一一七四頁)と述べています。 釈尊が菩提樹の下で“根源の法”を悟ってから、釈尊の出世の本懐である法華経を 自身の「生き方」と「振る舞い」を通して万人に示し、正しい教えと自分自身を拠り所としていくべきことを訴え 「怠ることなく、勤め、励め」との言葉を最後の教えとして八十年の生涯を閉じました。 釈尊滅後、その振る舞いと教えを正しく後世に伝えるために弟子たちが集まって、 師の教えを“経典”としてまとめたのが「八万四千の法蔵」と呼ばれる一代聖教です。 ・・・つづく ~2~へ
by taicyan0402e
| 2016-08-28 14:06
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