人気ブログランキング | 話題のタグを見る

フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

<徐々に最優良ブログの紹介をしていきます>
21世紀の日蓮仏法
kaede-midoriのブログ
英語で創価
創価学会男子部・ゴチえもん BLOG
広布の大河に君ありて
個人での内得信仰の日々のブログです(歓喜の中の大歓喜編2018.10.21~)
by 太ちゃん
メモ帳
検索
最新の記事
カテゴリ
以前の記事
記事ランキング
外部リンク
その他のジャンル

御本尊論と会則

いくつか論点がありそうだが『教学レポート』からは御本尊の扱いについて述べられている。まずはこれから自分なりに述べてみようと思う。
いわゆる宗門の『本門戒壇の大御本尊』と学会の『創価学会常住御本尊』との関連性の定義で教学部と上層幹部とで「意思の違い」が展開されている。

宿坊の掲示板の話から『上層幹部』とは会長・副会長クラスなのが明瞭だろう。
つまり、会長・副会長クラスVS教学部、という状態で御本尊論が展開されている。

御本尊論は、学会の会則を変更して宗門の『本門戒壇の大御本尊』には功徳が無いから『創価学会常住御本尊』を日蓮大聖人様の大御本尊と同等のものとしてしまうべき、という会長・副会長クラスの言い分と、教学部による『無理・矛盾の指摘』がなされている。

それで、さらに会長・副会長クラスの言い分としては先生の意向だ、ということらしい。『先生』とはいうまでもなく『池田大作名誉会長』であるわけだが。まぁ、先生の意向だ!という幹部連中の話に『違和感』を感じる学会員は先生の思想を生命でしっかりと受け継いでると自覚していいだろうと思う。教義上でも実際の信仰においてもこれでは『おかしくなる』と直感するのが『信心』を体感的にしっかりと理解してる者の感じることであるから。

まず曼荼羅について。
日達のでも日寛のでも学会は曼荼羅として会員へ授与してきている。
『功徳』の点では会員へ授与してる本尊でも『本門戒壇の大御本尊』『創価学会常住御本尊』のいずれも等しい。
ただし「条件付き」で。

ただ『信心』がキーとなり功徳を生じさせる。要するに曼荼羅という『モノ』ではなく、こちらの『一念』と曼荼羅しだいで功徳を引き出せるシロモノなのだ。そのために必要な『モノ』というだけで、それが『本門戒壇の大御本尊』『創価学会常住御本尊』というだけなのだ。

上層部の話からは『信心』が全くわかてってない様子がみてとれてしまう。
宗門の信仰には『一念』が全く違う。『即身成仏』を目指した信仰ではなく、法主自身を実際の信仰対象としてるから『功徳』が生じないということなのだ。そんな初歩的な認識すら会長・副会長クラスはしてないのであろうか。これではむしろ『創価学会常住御本尊』でも会長・副会長クラスの幹部には『功徳』など生じないであろうな。

さて、この記事では『別の側面』からみていきたい。
御本尊の扱いにはその人の人生が滲み出る。
例えば僕なんかは曼荼羅を自分の完全な『失態』から失ったが、アレの意味することは今なら理解している。
『曼荼羅』は僕にとっては『創価学会』を象徴している。『創価学会』からはロクな事をされてこなかったから必要性をほとんど感じてなかったのが結果的には『失う』という現証が起きた、というのがまず一点。
『失う』という現証の意味してるところは『創価学会』から間もなくいったん離れる事を暗示したものだと感じている。

さて、曼荼羅を失う、という現証は『罰』であったか『功徳』であったか。
やってしまった事に深く反省し、それまでの『惰性』を排除して真面目に取り組むための『キッカケ』となった。
そして今はしっかりと『功徳』を得るまでになっている。総合的には『功徳』の働きが大きくなった。

『組織』からいったん離れたのは『惰性』を排除するため。組織についていれば『なんとなく』で信仰してるつもりになれてしまう。それでは人生がただ『空転』していくだけなのをその当時にすでに実感していたから。『信仰』は自分の意思でやらないと何も身に付かない、というのが『御本尊様』を失った事により学べたことです。

実をいうと後日談がある。
『御本尊様』を失っていなかったんです。親戚のところにありますが、僕自身が『保持する資格を得た』と実感するまで御安置を控えているところです。未だやってない、というのは未だ『御本尊様』からの許しの現象がないためです。ですが、この流れですから近い将来はちゃんと『保持する資格を得た現象』が生じると確信して日々を励んでいるところです。

はてさて、こんな真摯な信仰を会長・副会長らからは全く感じられない。『本部』についても同様だ。
『曼荼羅を保持する資格』の無いものが御安置をすれば『功徳』どころか『罰』を生じさせていくことだろうな。

それで、追伸だが。
この御本尊の定義の騒動でひとつ見えてくるものがある。
宗門の『本門戒壇の大御本尊』は、会長・副会長らにとっては『正しいもの』であるから『目の上のタンコブ』なのだ。
このぐらいはおそらく『心ある学会員』にも察しがつくだろう。

僕にそれに加えてもうひとつ述べたい。
『本門戒壇の大御本尊』は正しいモノであるゆえ、『本門戒壇の大御本尊』は会長・副会長らには『池田先生』をも同時に『象徴』している様子がみてとれる。

つまりは、先生からは『功徳』が得られないような『行状』を今までしてきた、と述べてるのも同然であるが、そう感じるのは僕だけであろうか?


by taicyan0402e | 2014-10-23 12:08 | 高度で重要な特集
<< 激しい妨害 教学(部)レポート関連 ~ い... >>