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フーテン学会員の独り言@歓喜の中の大歓喜編

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第四十四回・如来神力品第二十一(1)

https://6027.teacup.com/situation/bbs/123952

法華経・南無妙法蓮華経への旅

投稿者:塾長 投稿日:2020年 9月19日(土)09時47分11秒

法華経  南無妙法蓮華経への旅 第四十四回  如来神力品第二十一(1)

この如来神力品は結要付属(別付属ともいう)で、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩に法華
経の肝要を付属するという大切な章なのですが、10頁ほどのこの品を何度読み返しても
明確な文証が見つかりません。それらしい文はあるのですが・・・その理由が分かりました。

『これは、鳩摩羅什訳にはありませんが、お釈迦さまは、《卓越した善行をなすもの(上行)
という名前の一人の指導者に向かっておっしゃられた》とあるから、上行菩薩ただ一人に
向かって、《あなたたちは、そのようになすがよい。如来は、すでにあなたたちを完成させ
ているのである》と答えた。これが付属になります』(橋爪大三郎/植木雅俊著 ほんとう
の法華経・ちくま新書411頁)


サンスクリット原典の法華経にはしっかりと記述があるものが、羅什訳の妙法蓮華経には
記述がないそうです。って、肝心なこと羅什さん訳しといてよ!(笑)

冒頭、地涌の菩薩が仏前に於いて釈尊滅後の弘教を申し出ます。

『「世尊よ。我れ等は仏の滅後、世尊の分身の在(いま)す所の国土・滅度の処に於いて、当
に広く此の経を説くべし。所以は何(いか)ん、我れ等も亦た、自ら是の真浄の大法を得て、
受持・読誦・解説・書写して、之を供養せんと欲す」と』(妙法蓮華経並開結・創価学会版
567頁)


すると釈尊は大神力を現じたといいます。則ち、仏の三十二相を顕現します。眉間白毫相(み
けんびゃくごうそう)で光を放ち、十方世界を照らし、広長舌相(こうじょうぜつそう)は放
つ言葉が真理であることを顕しています。衆生、天、竜、夜叉等、諸々の人々が歓喜します。

間髪を入れず、諸天が声高に言います。

『「此の無量無辺百千万憶阿僧祇の世界を過ぎて、国有りて娑婆と名づく。是の中に仏有し、
釈迦牟尼と名づけたてまつる。今、諸の菩薩摩訶薩の為に、大乗経の妙法蓮華と名づけ、
菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるるを説きたまう。汝等は当に深心に随喜すべし。
亦た当に釈迦牟尼仏を礼拝・供養すべし」と。彼の諸の衆生は、虚空の中の声を聞き巳(お
わ)って、合掌して娑婆世界に向かって、是の如き言を作さく、「南無釈迦牟尼仏、南無釈
迦牟尼仏」と』(妙法蓮華経並開結・創価学会版570頁)


無量の世界を過ぎて、娑婆世界にやって来た。この世界に釈迦牟尼仏という仏がいる。今、
菩薩たちの為に妙法蓮華経を説いている。皆は喜んで釈迦牟尼仏に頭を垂れ供養しろとい
うことです。そして、皆が「南無釈迦牟尼仏」と合掌しました。そのとき、十方世界が一
体となり、釈尊が上行菩薩等に告げます。

『「諸仏の神力は、是の如く無量無辺、不可思議なり。若し我れは是の神力を以て、無量無
辺百千万憶阿僧祇劫に於いて、嘱累の為めの故に、此の経の功徳を説かんに、猶お尽くす
こと能わじ。要を以て之を言わば、如来の一切の有(たも)つ所の法、如来の一切の自在の
神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」』
(妙法蓮華経並開結・創価学会版571~頁)


如来のあらゆる法、力はこの法華経に顕されていると言います。ここがもっとも肝心なと
ころかと考えます。「秘要の蔵」も顕されているのですから法華経に密教的要素はありませ
ん。また、「唯授一人」のような秘儀・秘法もありません。すべて経に「宣示顕説」されて
います。                                   (塾)


# by taicyan0402e | 2020-12-01 00:29 | 宿坊の掲示板の話題 | Comments(0)

第四十三回・常不軽菩薩品第二十(4)

https://6027.teacup.com/situation/bbs/123918

法華経・南無妙法蓮華経への旅

投稿者:塾長 投稿日:2020年 9月18日(金)18時28分17秒

法華経  南無妙法蓮華経への旅 第四十三回  常不軽菩薩品第二十(4)

常不軽品ではこの後、不軽菩薩が実は釈尊の過去世であったことが述べられます。

『得大勢よ。意(こころ)に於いて云何ん。爾の時の常不軽菩薩は豈に異人(ことひと)なら
んや。則ち我が身是れなり。若し我れは宿世に於いて、この経を受持・読誦し、他人の為
に説かずば、疾(と)く阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わじ』(妙法蓮華経並開結・創価学
会版561頁)


この発想がまた痛快です。常不軽菩薩が「異人ならん」ほかの誰でもなく、釈尊自身だと
いうのです。皆が蔑んでいた不軽菩薩が、実は皆が慕う釈尊だというのです。提婆達多が
過去世では、阿私仙人という釈尊の師であったこともそうですが、この法華経の編纂をし
た人たちの、発想の柔軟さには敬意を表したいと思います。釈尊を単なる「偉人」に止ま
らせません。

偉人だと思われていた釈尊も実は軽蔑されていたり、悪人と思われていた提婆達多が実は
釈尊の師であったりと、考えさせられるところが非常に多い経典です。

私は、この法華経で釈尊が悟った真実の法(真理)、即ち、「諸法実相」と「久遠実成」が説
かれた「方便品」と「如来寿量品」が重要なことは勿論ですが、その実践方法を明示した
「常不軽菩薩品」はとても重要な章だと考えています。他にも女人成仏・悪人成仏を説い
た「提婆達多品」なども重要なのですが、とりわけこの常不軽菩薩品は大切にしたいと思
う章です。

何度も申し上げますが、仏法は「生活法」だと考えています。日々を暮らす実践哲学なの
です。教義はもちろんですが、その実践方法が重要であることは言うまでもありません。
ここで私の中では関連して考えるのが御書の次の一文です。

『但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず』(御書16頁 唱法華題目抄)
*「利根」生まれつき利発な人・五根=眼・耳・鼻・舌・身が優れている 鈍根の反対語
*「通力」神通力・すべての事象に通達している力

正邪を明らかにするには「利根と通力にはよるべからず」つまり、経典を根本とせよとの
仰せです。前に述べたように(本編第二十五回)『釈尊も日蓮聖人も法華経という「法」に
依って仏の境涯を得られたということ』は重要です。そして、不軽菩薩もまた同様です。

ところが今の創価学会は三代の会長、なかんずく池田先生の「利根と通力」を判断基準と
する傾向が強いようです。偉大なる人物(池田先生)の「利根」と「通力」に頼っているよ
うに、私には思えます。それは、不軽菩薩の姿ではありません。

無名の不軽菩薩こそが私たちでなければならないのです。法華経の本質を取り違えている
ように私には思えるのです。

池田先生が残してこられた足跡は大変なものです。ゴルバチョフ大統領・周恩来首相との
間に築き上げられた信頼関係は民間外交としては最高峰の成果といえます。あまりにも池
田先生の足跡が偉大である為に皆が池田先生を師匠と崇める気持ちは理解できます。

しかしそれは仏法の法理には背く考え方なのです。先生が陣頭指揮を執るのが難しくなっ
た今、運動論としての「師弟不二」は終焉を迎えようとしています。「師弟論」の正しい評
価が、今こそ必要なのです。師弟論は創価学会の「運動論」ではあっても、仏法の法理に
照らせば「師」とはなり得ないことは、あの提婆達多品にも明らかです。      (塾)


# by taicyan0402e | 2020-11-30 07:20 | 宿坊の掲示板の話題 | Comments(0)

第四十二回・常不軽菩薩品第二十(3)

https://6027.teacup.com/situation/bbs/123864

法華経・南無妙法蓮華経への旅

投稿者:塾長 投稿日:2020年 9月17日(木)18時31分53秒

法華経  南無妙法蓮華経への旅 第四十二回  常不軽菩薩品第二十(3)

不軽菩薩の言動には「法華経の心」がありました。

『戸田先生にある人が質問して「中国・インドに仏法がもはやないと言われているが、経
典はたくさん残っているではないか」と。先生は「経典があるだけで、正しい信仰がなけ
れば、仏法はない。経典は、それだけではただの本(書物)だ。仏法じゃないのです」と言
われていた』(池田名誉会長著 法華経の智慧・第五巻134頁)


仏法の本質は「心」であり「行動」です。教学がいくらあっても、心や行動が伴なわなけ
れば「法華経の行者」とはなり得ません。「信心根本」とはいいますが「教学根本」とは言
いませんね。

不軽菩薩の「汝等は作仏すべし」と言い続けた行動を考えるとき、いつも思い出すのが草
創期の婦人部の方の体験です。直接に聞いたわけではなく、また聞きなのですが・・・

そのご婦人は大変な生活苦と戦っておられたようです。継ぎはぎだらけの着物を着続けて
いて、下駄の鼻緒の片方はちぎれて布で縛っていたといいます。生まれて間もない赤ちゃ
んを背中に背負い、両手は幼子ふたりと手をつないでいました。それでも毎日毎日、折伏
に出掛けて片端から一軒・一軒「信心しませんか?信心すれば幸せになれますよ」と戸を
叩きます。

対応に出る人たちは、不軽菩薩に対した増上慢の者たちと同じで心無い言葉を浴びせます。
「あんたより、私の方が幸せや」「さっさと帰ってんか!汚らしい恰好してからに」等々・・・

ある一軒の大きなお屋敷。彼女はそこでも同じ言葉を口にします。「信心しませんか?信心
すれば幸せになれますよ」その家の奥さんは生活という面では何の苦労もないほどに豊か
な暮らしを送っておられました。しかし、姑さんとの関係に悩んでいたのです。経済的に
は豊かであっても決して「幸せ」ではなかったのです。彼女の言葉に入会を決意したとい
います。

不軽菩薩の「汝等は作仏すべし」と、このご婦人の「信心すれば幸せになれますよ」は同
じ言葉のように私には思えます。草創の創価学会には、このような痛快な話がいっぱいあ
ったようです。今はどうなのでしょうか?

故、友岡雅弥氏は講演の最後に「私は病人と貧乏人ばかりと言われていた頃の創価学会が
今でも好きです」と、よくおっしゃっていたことを思い出します。

病人と貧乏人の集まりから、創価大学出身の教育者が何人、弁護士が何人云々の話は、そ
れはそれで信心の実証として誇れることだと思います。しかし、そうした高学歴の人たち
が増えることによって「普通の人たち」が片隅に追いやられるようなことがあってはいけ
ません。

現場には、まだまだ草創の精神を持った方が多くいらっしゃいます。しかし、私の知る限
りではそのほとんどが「副役職」に甘んじておられて「長」の役職の人に「長の一念」を
持った人が少なくなった気がします。信仰者一人ひとりも、組織総体も、曲がり角にさし
かかっている気がします。変わらなければならない点と、変わってはいけない点。本編第
二十四回でご紹介した、

絶えず日蓮の志に立ち返り、自らを検証していく柔軟さと、自らの強い志が大切なのだと
思う』(山中講一郎著 日蓮伝再考(一)平安出版142頁)


の言葉が思い出されます。私たちは常に、日蓮聖人の「志」を念頭に於いて考え、行動し
ていくことが大切なのではないでしょうか。                   (塾)


# by taicyan0402e | 2020-11-29 00:25 | 宿坊の掲示板の話題 | Comments(0)

第四十一回・常不軽菩薩品第二十(2)

https://6027.teacup.com/situation/bbs/123833

法華経・南無妙法蓮華経への旅

投稿者:塾長 投稿日:2020年 9月16日(水)19時43分28秒

法華経  南無妙法蓮華経への旅 第四十一回  常不軽菩薩品第二十(2)

『其の常に是の語を作すを以ての故に、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は、之れ
を号(な)づけて常不軽と為す』(妙法蓮華経並開結・創価学会版559頁)


誰人に対しても「汝等は作仏すべし」と言い続けるから増上慢の者たちが「常不軽」と名
付けたとあります。そう呼ばれるまで、この「不軽菩薩」は名前さえない無名の菩薩だっ
たということです。ここにも大きな意味が隠されています。弥勒菩薩や文殊師利菩薩のよ
うに、高名な菩薩ではなかったということは、現代に置き換えるなら有名な仏教学者や地
位の高い人ではなく「無名の一般庶民」だったと言えます。

この常不軽菩薩品は、釈尊滅後の弘教の在り方が説かれた章で娑婆世界での弘教が如何に
困難かは増上慢の者たちの行動からも明らかです。不軽菩薩のように忍耐が必要なのです。
妙法蓮華経並開結を持っている方は、この章を読んでみてください。ここまで不軽菩薩は
法華経を読誦したり書写したりしていません。

『是の比丘(不軽のことです)は終わらんと欲する時に臨んで、虚空の中に於いて、具に威
音王仏の先に説きたまう所の法華経二十千万憶の偈を聞いて、悉く能く受持して、即ち上
の如き眼根清浄、耳、鼻、舌、身、意根清浄を得たり。是の六根清浄を得已って、更に寿
命を増すこと二百万憶那由他歳、広く人の為に、是の法華経を説く。』(妙法蓮華経並開結・
創価学会版559頁)


不軽菩薩の入滅が近づいたとき、虚空から威音王仏の説いた法華経が聞こえてきて、それ
を受持し六根清浄を得て寿命を延ばした。そして人々の為に法華経を説いたとあります。
このときに不軽菩薩は初めて法華経を聞いたのです。法華経を聞いたこともなかったのに
「汝等は作仏すべし」と言い続けてきたことを、どのように考えればよいでしょうか?

この点の考え方を、植木雅俊氏は「不軽菩薩には、人間はこうあるべきという信念があっ
て、それは誰か偉い人が言ったとか、ありがたい聖典に書いてあるからとかではなく自分
の信念に基づいて行動した。それが法華経の意に適っていたということ」(主意)と述べて
います。

つまり、法華経の教えを聞いたことがなかったとしても、不軽菩薩自身がすでに法華経の
神髄を持ち合わせていたということになります。この考え方は素晴らしいと思いました。
私は「法華経の神髄」という言葉を使いましたが、「本質」といっても良いと思います。

何度も申し上げていますが、仏法は「生活法」だと私は考えています。現実社会を日々暮
らす中に於いて誰人にも敬意を払うことは豊かな人生を送るひとつの大きな要素であると
思います。そのことを不軽菩薩は誰に習うわけでもなく、すでに承知していたということ
になります。

『御義口伝に云く此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華
経なり』(御書764頁 御義口伝)


広義の法華経は、釈尊の「法華経二十八品」略義の法華経が不軽菩薩の「二十四文字の法
華経」そして、その肝要が日蓮聖人の「南無妙法蓮華経」の五字七字です。

『日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり』(御書336
頁 法華取要抄)


『一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いし
はいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』(御書1174頁 崇峻天皇
御書)


不軽菩薩の人としての振舞こそ、仏法の目指すものでしょう。          (塾)


# by taicyan0402e | 2020-11-28 02:08 | 宿坊の掲示板の話題 | Comments(0)